日本の国際化や超高齢化社会など、大きな時代の変化はいつも駒込・巣鴨エリアから始まる
1日に650万人もの乗客を運び東京の大動脈と呼ばれているJR山手線の沿線には東京駅、新宿駅、そして渋谷駅など東京に住んでいなくても一度は耳にしたことのある全国的に有名な駅がずらりと並ぶ一方、中には存在感が薄くてダサいと言われる駅が少なからず存在します。
その代表格として挙げられるのが、駒込(こまごめ)駅とその隣にある巣鴨駅でしょう。
と言うのは、駒込は山手線ゲームをしても大抵最後まで名前が出てこず存在自体がほとんど認識されていませんし、巣鴨に関しても「おばあちゃんの原宿」と呼ばれているように高齢者の街というイメージが浸透しているのです。
そのため、駒込・巣鴨エリアはほとんどの人にとってあまり接点がない街だと言えますが、実はこの地域はそれぞれの時代を牽引してきた著名人たちが愛していた街でした。
例えば、明治維新に貢献した維新の三傑の一人である木戸孝允、東京証券取引所の設立・経営に関わった日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一、そして小説家の夏目漱石など、駒込・巣鴨エリアは日本を代表する大物たちが住んでいた由緒ある街であり、日本が江戸から明治、明治から大正、そして昭和へと進化してゆく過程をそっと見守ってきた街でもあるのです。
▼ 100万冊の蔵書と共に日本の本当の国際化は駒込から始まった。
そもそも駒込に日本を代表する著名人が集まるようになったのは、もともと駒込が江戸時代から人々の憧れの地であったことに関係しているようなのです。
と言うのも、本駒込エリアに広がっている本郷台地は、更新世段丘という1万年以上も前につくられた地盤によって形成されているため地震に強く、そうした理由からこの地域に住むことが許されたのは第5代将軍、徳川綱吉の補佐役として幕政を主導した柳沢吉保など、将軍に近い人ばかりでした。
そうした背景があって、明治に入ると国に大きな功績を残した元勲や実業家たちがこぞって邸宅や別荘を駒込に建て、この辺りは大和郷(やまとむら)と呼ばれるようになるのですが、実はこの地域を開発分譲したのが現在の三菱グループの創始者である岩崎家だったのです。
1924年、三菱グループ3代目社長の岩崎久弥は世界5大東洋学研究図書館の一つに数えられる東洋文庫をここ駒込に設置し、この研究図書館は後に日本が世界に進出してゆく中で世界水準に達するための大きな鍵となりました。(1)
この研究図書館には100万冊を超える書籍が保管されていたのですが、その中でももっとも重要だったのは、イギリス・タイムズ紙の特派員であったジョージ・モリソンによって収集された合計2万4000冊にも上るアジア関連の書籍です。(2)
それらの書籍には、欧米人のアジア認識がいつ、どこで始まり、どのように変化していったのかが記されており、さらに外交、財政、そして政策などに関する書籍も多く含まれていたので、20世紀初頭に外国人が日本や日本人のことをどのように見ていたかといった国際状況を俯瞰的に理解するのに大きく貢献しました。(3)
世界的に貴重な本が大量に所蔵されていた東京・神田にある神保町がアメリカ軍の空爆目標から意図的に外されたという話はあまりにも有名ですが、ここ駒込の研究図書館に関しても同様に、所蔵されていた貴重な書籍の存在は当時世界的に知られており、東京大空襲の際には空爆目標から外されて被災しなかったことからも、どれだけ重要な書籍が所蔵されていたかがよく分かります。
こうした歴史を振り返ってみると、駒込に集められた蔵書が日本の国際化を後押ししたことは間違いありませんし、そう考えれば日本の国際化は駒込から始まったと言うこともできるでしょう。
▼ 幅が狭くて速度の遅いエスカレーターがある非効率的な巣鴨の商店街には、年間800万人が訪れる
このように駒込・巣鴨エリアを見てみると、国際化を目指していた20世紀までの日本の未来を影で支えてきたのが駒込だった一方で、人口の3割以上を高齢者が占める超高齢化社会に突入した現在の日本が進むべき次の時代のヒントは、駒込から歩いて10分足らずのところにある「おばあちゃんの原宿」で有名な巣鴨エリアなのかもしれません。
一般的におばあちゃんの原宿と呼ばれているのは巣鴨駅から歩いて5分程度のところにある巣鴨地蔵通り商店街なのですが、長さが800mもあるこの商店街通りには200以上もの店舗が立ち並び、年間の来場者は800万人にも上るのだそうです。
そんな巣鴨地蔵通り商店街は江戸時代には、江戸の日本橋から京都の三条大橋までを結ぶ中山道でした。巣鴨は中山道の出発地点である日本橋から出発して最初の休憩所として現在の街並みが作られ、江戸の中期から現在にいたるまで多くの人で賑わい栄え続けてきたことから、商売の街としての歴史は非常に長いと言われています。
また中山道は江戸から都まで534kmにもおよぶ非常に長い旅路だったこともあり、中には旅の途中で倒れてしまう人も少なくなかったようで、旅の途中で亡くなった人や馬を祀るために、後世での短命や若死にを免れるよう願いを込めて延命地蔵が建てられました。
現在の巣鴨商店街の名物とも言える、とげぬき地蔵はもともと現在の上野駅のそばにあったのだそうですが、それが明治24年に東京市区改正計画のために巣鴨に移転したことで、巣鴨は商売の街としてだけでなく信仰の街としても栄え、結果的に高齢者ビジネスのメッカとなったのです。
今や、紙おむつ市場は赤ちゃん用の紙おむつ市場が1400億円なのに対して、大人用の紙おむつ市場は1500億円と赤ちゃん用を上回り、さらにインターネット市場に関しても、利用者がもっとも増えているのが65歳以上の高齢者で、2001年時点では10%程度だった利用率は2010年時点で60%にまで激増しているように、日本市場は急速に高齢者中心にシフトしています。(4)
そんな中、江戸時代から続く商売の街である巣鴨商店街のあり方と言うのは、今後ますます高齢者の割合が増える日本が目指すべき街の経済や街のあり方のヒントになり得るはずです。
巣鴨の商店街や駅周辺の作りが興味深いのは、商店街の目と鼻の先にあり多くの高齢者が利用する都営三田線巣鴨駅A3出口に設置されているエスカレーターが通常よりもゆっくりと作動していることにあります。
東京都交通局によれば、一般的な駅や商業施設に設置されているエスカレーターは通常毎分30mの早さで動いているのに対して、巣鴨駅のエスカレーターは毎分20mで動いており、さらに追い越しが出来ないよう意図的にエレベーターの幅を狭くしていて、これらは高齢者の利用者が多いことに配慮しているからなのだそうです。
徹底的に効率化された一般的な東京の街とは対照的に、巣鴨は街全体の時間の流れを意図的にゆっくりにすることで、人と人とが交わる隙間を作り出しており、実際に巣鴨商店街の来場理由を調査した結果、来場理由のトップを占めたのは価格や品揃えでもなく「店に対しての信頼」と「顔なじみに会うため」という結果が出ました。
効率化された社会に流れる時間の早さは昔と比較すれば何倍にもなっている一方で、私たちの体は5万年前からほとんど変わっていないため、時代が進むにつれ人は社会の流れについて行くことに精一杯になり、その中で人と人とが交わる空間や時間というものは失われつつあります。
そういった意味においては、規模や効率は決して高くは無いものの、一人ひとりのお客さんを時間をかけてもてなし、街に流れる時間の早さを人間本来のペースに合わせようとする巣鴨のあり方こそが本来あるべき姿なのでしょう。
▼ 商店街のアーケードも使い方次第では、世間の嫌われ者から時代の最先端へと進化する
近年では街の見た目の問題や商店街が暗くなるなどのデメリットが指摘されるようになったため、全国的に商店街のアーケードを撤去して新たな建造物を作る傾向にあるようですが、巣鴨ではあえてアーケードを取り払いませんでした。
それは、商店街のアーケードが国道17号線を挟んで南北に位置しており、一日中太陽光が当たりやすいことを利用して、撤去する代わりに、屋根に縦80cm横160cmの大きさのソーラーパネルを全部で188枚設置したのです。
その節電効果は絶大なもので、4月〜7月の4ヶ月の発電実績を見てみると、商店街で消費する電力の50%以上をソーラー発電で補うことに成功しており、巣鴨は高齢者ビジネスのメッカとしてだけでなく、環境先進都市としても活躍し始めていると言えるでしょう。
このソーラーパネルで得た電力は東京電力に一度売って、売却して得たお金を次回、電気を買う時の足しにするという仕組みになっているのですが、実は災害などで停電した場合は直接電力を供給することもできるのだそうで、地域のライフラインとしての機能も果たしているのです。
恐らく本当の街の進化というのは、この巣鴨の商店街のように、もともとそこにあったモノに手を加えて新しい機能を付け加えるところにあるのでしょう。
しかし最近では街に何か新しい機能を付け加えようとするときには、もともとそこにあったものを一度取り壊して、そこから新しい建造物を一から作る傾向にありますが、そこには連続的な時間の流れはなく、言ってしまえばそれは街が進化しているのではなく単に機能が交換されているだけなのです。
よく考えてみれば、現代社会には渋谷の再開発のように街の機能が次の時代に受け継がれることなく、ただ単に古いものを壊してそこに新しい建物を建てるというサイクルにはまってしまっている街がたくさんあるような気がしてなりません。
そして、そうしたサイクルにはまっている街というのは大抵の場合、街のコミュニティ、文化、そして歴史を維持できなくなってしまったがために、新しくてキレイなコンクリート建築に頼るようになってしまうのでしょう。
2020年東京オリンピックの新国立競技場の設計を行う日本を代表する建築家、隈研吾氏はコンクリート建築について次のように述べています。(5)
コンクリートはドロドロとしていた不定形の液体であったものが、ある瞬間、突然に信じられないほど固く強い物質へと変身を遂げる。
国家も、自治体も、あらゆる共同体がコンクリートによる固定化で明確な『形』を獲得することによって、(文化や歴史などの)不安定な存在を固定しようとしてきた。
新しい商業施設を次々と作ることなく、街の住民や街に訪れる人々によって歴史や文化を維持してゆくことのできている駒込・巣鴨エリアは、私たちがこの先進むべき次の時代のお手本になると言えるのかもしれません。
参考資料
山川尚義「東洋見聞録 GEモリソン特集号」(東洋文庫、2017)
東洋文庫「時空を超える本の旅 東洋見聞録展 モリソン文庫の至宝」(公益財団法人東洋文庫、2017)
山川尚義「東洋見聞録 GEモリソン特集号」(東洋文庫、2017)
村田裕之「シニアシフトの衝撃」(ダイヤモンド社; 1版、2012)Kindle
隈研吾「自然な建築」(岩波書店、2008)P16
著者:高橋将人 2018/1/9 (執筆当時の情報に基づいています)
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