年間100本の映画を生み出した蒲田撮影所。「映画の基本は救いでなければならない。見た人に失望を与えるようなことをしてはいけない。」

京急蒲田駅の改札を出て北に進み、5分も歩けば到着する「キネマ通り商店街」。

この商店街が「キネマ通り」と名付けられているように、蒲田にはかつて松竹映画の撮影所がありました。

1920年に設立されてからなくなるまでのおよそ15年の間、そこで生まれた映画の数は1380本に上り、映画界に“蒲田調”という、一つのジャンルを生み出します。



蒲田調は庶民大衆を描く、明るく温かいヒューマンドラマを基本としており、その方向性を見出したのは当時蒲田撮影所の所長であった城戸四郎です。

もともと「軍人嫌い、戦争嫌い、暴力嫌い」が三拍子揃っているような城戸ですが、城戸にとって蒲田映画の路線を定める大きな転機となったのは1923年に起きた関東大震災でした。

崩壊した街、死体の浮かぶ川、道路には歯をむいて馬車馬が倒れて死んでいる。そこには、ヨイトマケの歌を高らかに歌ってたくましく生きている人々がいて、母親の背中では赤ん坊が無心に眠り、子どもがラムネ玉を転がして遊んでいる…そんな情景を前にした城戸は、「映画はこの人たちのためにつくられなければならない」と思ったのだそうです。



庶民の日常にフォーカスを置くようになった蒲田映画は、「あっさりしすぎていて、コクがない」とか、観客が実生活で日々体験していることをわざわざ映画にして見にくるわけがないとか、酷評されることもあったそうですが、城戸は一貫して蒲田調を推し進め、次のように言いました。(1)

「映画のコクとは何ぞや。ショウバイとは何ぞや。映画は汗して働く多くの人々の心に大きな影響を与える社会的文化的存在であり芸術であることを忘れてはならない。」

「松竹としては人生をあたたかく希望を持った明るさで見ようとする。映画の基本は救いでなければならない。見た人間に失望を与えるようなことをしてはいけない。」



蒲田映画に欠かせないのが、今なお世界各国の映画通によって作品が高く評価されている小津安二郎監督で、その代表作に「浮草物語」という映画があります。

この作品で小津監督が描き出したのは、女房をほったらかしにして若い女にうつつを抜かす、ろくでなしの父親なのですが、この映画を撮っていた時の小津監督の日記には「脚本難航」という言葉があちこちに見られるのだそうです。

現代では当たり前の脚本づくりですが、昔はきちんと本になっているものはないのが当たり前でした。

悪者がわかりやすく波乱万丈な時代劇や戦争映画に対して、ヒューマンドラマの蒲田映画は見せどころがわかりにくく、それを面白く見せるためにきめ細やかな脚本づくりが求められるようになっていったのです。

脚本家たちと夜な夜な語り合い、できるだけ庶民の中に入ってドラマを見つけろ、という城戸は、女性の心理を掴むことがいい脚本を書く秘訣だとして、脚本家たちを夜の街に連れ出し、カフェや酒場で女性を口説かせたりしていたそうです。



松竹映画「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」の山田洋次監督は、最終的には会長として松竹を率いながら城戸が守っていた松竹映画について、次のように想いを語りました。(2)

「ぼくが若い頃は、この伝統が、つまり世に言う蒲田調、大船調なるものが厭でたまらなかった。いかにしてこのだらだらしたホームドラマの退屈な予定調和的世界から脱却するか、その影響をはねのけるかを常に考えていた。もちろんぼくだけではない、監督を夢見る同じ世代の若者たちはみなそう考えていたはずだ。」

「しかし、寅さんシリーズを47作も作った今、振り返ってみるとぼくの仕事もぼく自身も、結局は松竹映画の大きな山脈の端に連なるひとつの山であることを発見するのである。」



蒲田映画時代に店が続々と生まれて栄えた蒲田の街。今となっては奥へと進むほどシャッターの降りた店が目に入る「キネマ通り商店街」ですが、その中に「キネマフューチャーセンター」という、人々が映画を見て語り合う場があります。

キネマフューチャーセンターで2015年から上映されてきた「未来シャッター」という映画は、蒲田を主な舞台とし、下町ボブスレーなどのものづくり職人や製造業の社長たちも役者として出演しています。



「未来シャッター」を製作したNPO法人ワップフィルムの高橋和勧さんによると、「人を幸せにする映画を作りたいと思った。そして、幸せを分かち合いながら、これを高められれば」という気持ちでつくられたのだそうです。やはり、人々の周りで起こっていることの中に愉しさを見出す映画が蒲田の街には似合うのでしょう。

どこか憎めない庶民を描いてきた蒲田調が根付いている蒲田の街は、得体の知れない飲食店などが多く「治安が悪い」と見なされることも少なくありません。しかしそれもきっと、どんな人でも明日を生きる愉しさがある街だということの証なのだと思います。


(1)升本 喜年「小津も絹代も寅さんも-城戸四郎のキネマの天地」(新潮社 2013年)p101、115(2)「キネマの世紀ー映画の百年、松竹の百年」(松竹映像本部映像渉外室 1995年)p36

参考書籍

山田 洋次「キネマの天地」(新潮社 1986年)

升本 喜年「人物・松竹映画史-蒲田の時代―蒲田の時代」(平凡社 1987年)


著者:関希実子 2018/6/1 (執筆当時の情報に基づいています)
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