新宿からロマンスカーで1時間。小田原で150年以上も受け継がれてきた「心田開発」とは?
小田原城で有名な神奈川県小田原市は、そこからおよそ7km離れた箱根とセットで全国から観光客が訪れるまちです。
実はこの小田原市、東京から新幹線に乗っていく遠いところのようなイメージを持たれることもありますが、都心からのアクセスはどんどん便利になってきています。
小田原と新宿・渋谷をつなぐJR東日本「湘南新宿ライン」の開通と共に、快速急行をつくるなどして対抗してきた小田急電鉄。ついに2018年3月、小田急「ロマンスカー」のダイヤ改正により、新宿駅から小田原駅まで最速で1時間を切るまでになりました。
さて、小田原駅にやってくると、小田原城に向かう人たちで賑わっているのが小田原駅の東口です。
その反対側の西口は、少し歩けば昔ながらの住宅街。5分くらい歩いたところには、「はじめ塾」という表札が出ている民家がありますが、このはじめ塾は一般的な学習塾とは違い、これまで80年以上も続いてきた、高校生までの子どもがみんなで生活する小さな寄宿生活塾です。
はじめ塾には学校に通わない子もいますが、「どうして不登校になったの?」と聞かないことにしているのだそうで、はじめ塾3代目塾長 和田正宏さんは、「ここに来た子どもの過去に何があったのか、僕はほとんど知らないんですよ。」と述べています。(1)
正宏さんの祖父 初代塾長の和田重正は、太平洋戦争で疎開した先のこの小田原ではじめ塾を開き、寄宿教育を始めました。「よい学校」をつくりたいと思っていたこともあったそうですが、結局重正が始めたのは「ものを教えなくてもよい塾」、生活をともにする生活道場でした。(2)
子どもや青年とはじめ塾でともに暮らすようになった重正は、折に触れて「いのち」について語っていたそうで、その言葉がおさめられている「葦かびの萌えいずるごとく」という本には次のような話もあります。(3)
「山に行くたびに、なん十回でも同じ驚きを心の底から驚くのです。『よくもこんなにいろいろなものが、ひとりでに生えているものだ、おまけに、それがどの部分をとってみても実に納得のいく取り合わせになっているとは』」
「人間の社会は、大中小のありとあらゆる種類の草木の生い茂った山みたいなものだと思います。その中の男、女、大人、子ども、強い人、弱い人、賢い人、おろかな人、白い人、赤い人、黒い人、いろいろな人間が草木です。」
重正が小田原の雑木林で見つけた、足元にひしめく多様な「いのち」の存在を通じて子どもたちに伝えたいと考えたこと。それは、山だろうが人間社会だろうが、どんな小さな範囲でもいのちは本来、ひとりでに多様な集まりになるということなのかもしれません。
山のほかにも、重正がときどき行っていたという場所に、小田原駅西口を出て小田急小田原線の線路沿いに歩いて少し行ったところにある小田原少年院があります。
そこで少年たちといろいろなことを話し合ったという重正がいうには、小田原少年院にいるのは何度も悪事を重ねてきた20歳手前の人たちで、家庭でも学校でもずっと不良として扱われてきたため、自分を悪人だと芯から思い込んでいるのだそうです。(4)
小田原少年院で17〜19歳までを過ごしたというボクサーの勅使河原弘晶さんは、実際、「真面目になろうなんて一切思ってませんでしたし、出たらもっと悪いことしようなんて思ってました。」と、自身のブログの中で当時の自分を振り返っていました。
しかし、少年院の図書の棚にあった輪島功一の自伝を読んで「世界チャンピオンになる!」と決めた勅使河原さんは、出所して輪島ジムに入り、ついに2017年、WBOアジア・パシフィック・バンタム級の王者となります。そんな今の勅使河原選手にとって、小田原少年院は「学校じゃないけど、俺にとっては大切な母校みたいなもん」なのだそうです。
小田原少年院が母校だという勅使河原選手には、幼少期に家の壁をむしって食べていたこともあったというほどの虐待を受けていたバックグラウンドがあります。
その一方で、2014年度の調査では、東大生の育った家庭の過半数が年収950万円を超えている…。はじめ塾には不良も引きこもりも経済的背景も様々な子どもが集まるのと対照的に、今の教育の場は、集まる子どもが驚くほど偏っているのです。
「この人は悪人」「この人は善人」などと決まっている人はいないと、小田原のはじめ塾で和田重正が子どもたちに話してたように、善や悪、貧と富というような対立したものの見方を取り払わなければならないと説いた先人に、小田原生まれの二宮尊徳(二宮金次郎)がいます。
二宮尊徳といって思い浮かぶのは、薪を背負って読書にふける少年像ですが、それは明治以後の政府が社会に植え付けた“勤勉の象徴”であり、大人になった実物の尊徳はおよそ190cm90キロの大男だったのだそうです。
天保の大飢饉などに農民が苦しめられた江戸時代、「一人の心の荒地が開けたならば、土地の荒廃は何万町歩あろうと心配することはない」として、田畑そのものではなく、人々の心を開墾しようと手を尽くした尊徳は、小田原藩を中心とする600を超える農村の復興に成功しました。(5)
“新田開発”ならぬ“心田開発”の方法として尊徳が農村に導入したことの一つが、村人の話し合いの場「芋こじ」。その言葉が本来、水の中で里芋同士を棒で転がされているうちに里芋の汚れが落ちていくことを指すように、芋こじは村人がお互いに心を洗い合う場というわけです。(6,7)
それまで救済というのは上からもらえるものであった農村で、芋こじができたことにより村人たちは、農業に関する相談事をはじめとし、頑張っている人を投票で選出して表彰したり、お金を誰に融資するかを決める話し合いなども行うようになりました。
言わば、今スイスの自治体などで行われている、民衆が代表を通さずに直接集団の意思決定に参加することができる「直接民主制」と同じことが、江戸時代の小田原をはじめとする村々ですでに行われていたことになります。
戦後、日本で尊徳のことを研究したGHQ民間情報教育局新聞課長は「日本の生んだ最大の民主主義者」とまで称しました。そして、施しを与えるよりも、一人一人に尊厳を与える尊徳の考えはアメリカの独立宣言にも通じるところがあるとして、「二宮尊徳はリンカーンにも比すべき人物である」と述べていたそうです。(8)
「見渡せば 敵も味方もなかりけり おのれおのれが 心にぞある」(9)
こうしたものの見方を尊徳が広めていった小田原のあたりでは今も、いろんな子どもがやってくる「はじめ塾」のような、周りに価値観を合わせられなくても敵にも悪にもならない文化、自分の感じたことなどを素直に言い合える安心感が大切にされているのかもしれません。
小田原市長(3期目)をつとめる加藤憲一さんは、中学2年で両親ともになくし、はじめ塾を「育ての親も同然」のように思って高校3年までを過ごしたそうです。(10)
加藤さんが掲げている政策「いのちを大切にする小田原」は、すべてのいのちが支え合って生きる、そういうふうに誰もが思えるようにお互いへの信頼を生み出していくような社会をつくること。よく言われるような医療や福祉の充実を指すわけではありません。
「からいもあり、甘いもあり、酸いものもあり、苦いものもある。それを皆甘くすることは出来ない。」という尊徳曰く、人々がそれぞれ異なっている個性を出し合えば、「世界には捨てるものがない」のです。(11)
一方で、同じような価値観を持つ集団の中で生活し、その狭い価値観から外れる発言や行動ができない、外れてしまえば捨てられるかもしれないと感じている毎日は、きっと心から安心な暮らしとはいえないでしょう。
いのちのあり方に素直になれる小田原にいると、あれもダメこれもダメと、誰かの価値観で自分をダメにしてしまっていたことが、とてつもなくもったいなく思えてくるのです。
【参考書籍】(1)落合篤子「幸せをつかむ力:はじめ塾80年のキセキ」(日本評論社 2013年)p54
(2)和田 重正「生き生き育つ」(柏樹社 1978年)p21
(3)和田 重正「葦かびの萌えいずるごとく―若き日の自己発見」(地湧社 2014年)p214−6
(4)和田 重正「葦かびの萌えいずるごとく―若き日の自己発見」(地湧社 2014年)p220−1
(5)大貫 章「報徳に生きた人、二宮尊徳」(ABC出版; 新版 1996年)p15
(6)松沢 成文「混迷日本再生 二宮尊徳の破天荒力」(ぎょうせい 2010年)p152
(7)大貫 章「報徳に生きた人、二宮尊徳」(ABC出版; 新版 1996年)p63
(8)松沢 成文「混迷日本再生 二宮尊徳の破天荒力」(ぎょうせい 2010年)p181−4
(9)小川国彦「成田ゆかりの人物伝」(平原社 2002年)p85
(10)落合篤子「幸せをつかむ力:はじめ塾80年のキセキ」(日本評論社 2013年)p24
(11)宇津木 三郎、小田原ライブラリー編集委員会編集「二宮尊徳とその弟子たち」(夢工房 2002年)p38
著者:天野盛介 2018/7/6 (執筆当時の情報に基づいています)
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