「文化とやさしさのまち」立川。「基地のまち」が、『タチカワ屋台村パラダイス』に蘇る。


窓明かりが眩しいオフィス街を横切るように、モノレールが走る。近未来都市をイメージさせる立川は、東京多摩地区の中心都市として機能しているだけあり、駅周辺の活気は都心部に引けを取りません。

中でもひときわ栄えている、高島屋や伊勢丹が立ち並ぶ駅北口を曙町方面に進んでいくと、居酒屋やキャバクラといった夜の顔が覗きます。

そんな中で一際目立つのが、二丁目の柳通り商店街の中にある、『タチカワ屋台村パラダイス』と書かれた、古びたアーチ型の看板。



焼鳥や串揚げの煙を上げる居酒屋や、ウィスキーをメインにしたバーなど13店舗が並ぶ『タチカワ屋台村パラダイス』は、ほんの5分で通り抜けることができるような小さな飲み屋街です。

近代的な街の中で提灯のあかりを煌々とゆらめかせ、異彩を放つこの一角は、立川が持つ街の歴史と深く関連しています。



立川には1945年から1977年までの32年間、米軍が駐留していました。市内には失業者が溢れ、夜の女性も増えた立川では、ビヤホール、バー、キャバレーが100軒以上ができ、立川は「基地のまち」となったのです。

そんな「基地のまち」をイメージして建てられたのが、この『タチカワ屋台村パラダイス』です。今でこそ多くの人が集まる憩いの場となっていますが、その建設までには、立川の歴史の変遷がありました。

1977年に立川飛行場が全面返還されると、立川では「基地のまち」から「文化のまち」へ生まれ変わるため、アートを街と一体化させるプロジェクトがスタート。(1)



当時、立川市がまちづくりのテーマとして掲げたのは、「文化とやさしさ」でした。

世界の人々は一人ひとりみな異なる個性があり、その違いを尊重する「やさしさ」を持つこと。そういった多様性の素晴らしさを、「アート」として表現するため、街の中に世界各国の美術作品を埋め込みました。

シンガポール出身のダン・ダ・ウが生んだ「最後の買い物」と称される巨大なアートや、ニューヨーク出身のヴィト・アコンチが制作した真っ二つに割れた車のようなオブジェなど、各国のアートが街の至るところで見ることができます。

「ファーレ立川」は、そんなプロジェクトの末に誕生したアート地区の名称です。



そのようにして徐々に「基地のまち」としての色が褪せていく中、市民からは昔の「立川らしさ」を懐かしむ声もありました。

そこで、立川市教育振興会理事長だった中野隆右氏は、当時の賑わいを象徴するように、2008 年に『タチカワ屋台村パラダイス』を建設しました。今からたった10年前ということになります。(2)



「人は野に杭を打ち 柵を立てる フェンスの向こうにアメリカがあった」

「人は泣き笑い唄い 逞しくなる 人は泣き笑い唄い 頼もしくなる」

これは、音楽家でもあり小説家でもある木根尚登さんの手がけた『立川の空』の一節です。

1977年に飛行場が全面返還される以前、飲み屋街がひしめく立川の街を包んでいた悔しさや悲しみは、「文化とやさしさのまち」への原動力になったのではないでしょうか。



今では、「文化とやさしさのまち」立川は、「アニメ・マンガの町」とまで呼ばれるようになりました。例えば、『聖☆おにいさん』や『とある魔術の禁書目録(インデックス)』、『魔法少女まどか☆マギカ』では、数多くの立川の風景が登場します。

街の各所にアートが置かれ、多くの商業施設や高層マンションがそびえ立つ立川。駅北口のロータリーには、今日も多くのサラリーマンや学生たちが、足早に通りすぎます。



しかし、一歩『タチカワ屋台村パラダイス』に足を踏み入れ、耳を澄ませば、「基地のまち」を「文化とやさしさのまち」に変えるために立ち上がった人たちの声が聞こえてくる気がします。

その熱気を帯びた空気にのせて、多摩地区の中心的存在にまで立川の発展を築いた市民のエネルギーを現代に伝えるように、『タチカワ屋台村パラダイス』は、今日も営みを続けています。

【参考書籍】

(1) 北川フラム『ファーレ立川パブリックアートプロジェクト 基地の街をアートが変えた』(現代企画室 2017)

(2) 中野隆右『立川〜昭和二十年から三十年代』(ガイヤ出版 2007)


著者:清水翔太 2018/7/25 (執筆当時の情報に基づいています)
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