祭りがつくったまち、千葉県佐原「江戸時代の町人自治が今もこの町に生き続けている」
千葉県北部の北総地域を代表する町、佐原(さわら)は江戸時代に利根川の舟運によって繁栄した商人の町で、江戸から取り入れた文化を独自に発展させた佐原の文化は「江戸まさり」と呼ばれたほどでした。
まちのほぼ中央を流れる小野川沿いには問屋や両替商、呉服屋、料理屋といった商家が立ち並び、その多くは昔からの家業を今でも引き継いで営業していることから、佐原の町並みには今も生きている町並みとしての江戸の情緒が滲み出ています。
この佐原で毎年7月と10月に行われる夏祭りと秋祭りは2つ合わせて「佐原の大祭」と呼ばれていて、このお祭りは関東三大祭りの1つに名を連ねている他、2016年12月にはユネスコの世界無形文化遺産にも登録されました。
「祭りの日に休めない会社には絶対に就職しない」「祭りの日に休めないならどんなに給料のいい会社でも辞める」「祭りさえ休めれば他の日は休めなくてもいい」
佐原に住む人たちはそう語るほど大の祭り好きで、この夏祭りと秋祭りのために1年間働くというように、佐原の人々とお祭りの間には切っても切れない密接な関係があるようです。
▼ 江戸の想像力を超えた佐原の大祭は今でも時代を超えて受け継がれている
佐原の大祭の特徴は、豪華な彫刻がほどこされた大きな山車(だし)とその上に飾り付けられている大人形で、合わせると10メートルほどにもなるこの巨大な山車がお祭りの期間中佐原の町中を曳き廻されます。
このお祭りの起源は約300年前にもさかのぼるといい、江戸を支える物流都市として関東でも江戸の次に活気あふれるまちへと成長した佐原の山車は、江戸の山車と競うように豪華で華やかなものへと進化していきました。
江戸との緊密な交流の中で財力をつけた佐原の町衆は、等身大だった江戸の人形よりも大きな人形を作ってくれと注文をつけて、一流の人形師でも作ったことがないほどの巨大な大人形を開発させたのだといいます。
神話や歴史上の人物などがモチーフとなっている大人形だけでなく、山車本体に彫られた彫刻や祭りを盛り上げるためのお囃子なども江戸の文化の影響を受けて作り上げられました。
日本三大囃子の1つに数えられている佐原囃子は、単調的なリズムが繰り返される一般的な祭りのお囃子とは異なり、地元の神楽囃子をベースに、各地の民謡や各時代の流行歌、能楽や歌舞伎の下座音楽、さらには洋楽の技法を取り入れて独自に作曲された情緒的なメロディーが特徴となっています。
江戸時代から300年にも及んで代々受け継がれてきた佐原の大祭は、25あるそれぞれの町内が異なる人形を作り、山車の装飾や曳き回し方、お囃子のうまさなど町内同士が競い合うことで発展してきました。
佐原の大祭は2004年に国の重要無形民俗文化財、2016年にはユネスコの世界無形文化遺産に登録されたわけですが、今からおよそ30年ほど前までは「自分たちだけが楽しければいい」という好き勝手な雰囲気が広がって祭りの形態が乱れ、住民からは「こんなお祭りなんかもうやめた方がいいんじゃないか」という声が上がった時期もあったようです。
それでもこの祭りが今日まで続いているのは「地元の人だけで祭りを楽しんでも町は発展しない」と考えて、自分たちが楽しむための祭りから外からやってくる人たちを楽しませるための魅せる祭りへと変化を遂げたからでした。
江戸との緊密な交流を通して伝わった江戸の粋と町人文化を独自に昇華させた佐原の大祭は、江戸の人々も想像することのなかったまさに「江戸まさり」なお祭りとして今でも多くの人を魅了しています。
佐原の大祭の大きな特色はみごとな彫刻が施された山車と巨大な大人形ではありますが、なによりも素晴らしいのは、江戸にも負けないお祭りを作り上げた佐原の人々のお祭りにかける熱い思いなのではないでしょうか。
▼ お祭りを通してまちづくりを行う「祭りとはすなわち政(まつりごと)」
「祭りは政(まつりごと)に通じると言いますから、もともとが町づくりです」
そう語るのは佐原の大祭実行委員会で顧問を務める小森孝一さんで、長年お祭りの発展に力を尽くしてきた小森さんによれば、佐原の大祭もただ楽しめむためのものではなくて、元々は商人たちが町づくりのために活用したというルーツがあると語ります。
侍も役人もいなかった江戸時代にこの町をまとめていたのは旦那衆と呼ばれる有力な商人や地主の人々で、彼らは他の町内と競い合わせることでお互いを高め合い、強力なコミュニティを作るための方法としてお祭りを活用しました。
大きな山車で狭い路地裏へと入っていく時に民家スレスレのところを通したり、山車と山車とが数センチ差ですれ違ったりする時の緊張感によってお互いの心が繋がり、見事に成功して拍手喝采が沸き起これば町内に強いまとまりが生まれるのです。
小森さんは「佐原の祭りはまだまだこんなもんじゃない。佐原の中だけでなく、日本一の祭りにしたい」と言っていて、なぜそこまで一生懸命頑張るのかというと「佐原をもっと知ってもらって祭りだけじゃなくて1年間を通してお客さんが来るようになればまちが賑わう。それが報酬なんだ」と語っています。
その話ぶりからはかつての佐原の旦那衆が持っていた「地域がよくならないと自分もよくならない」という経世済民の考え方が今もしっかりと受け継がれていることが見て取れるでしょう。
NPOまちおこし佐原の大祭振興協会前会長の伊能慶亨(よしたか)さんもお祭りに参加する人々について「人形の大きさも日本一ですが人のパワーもまた日本一だと日本中の祭りを観てきた私は断言できます」と語っていました。
小森さん「佐原の祭りはまだまだこんなもんじゃない。もっともっと盛り上げていきたい」
伊能さん「目先の損得ではまちおこしはできない。少しくらい儲からないからってすぐ辞めるようじゃダメだ」
佐原の旦那衆が江戸にも負けないような祭りを作って大きく町を発展させたということはつまり「祭りづくり」イコール「まちづくり」であると考えることができるのではないでしょうか。
佐原の大祭を日本一の祭りにするべく、今後も競争と共創を繰り返しながら多くの困難を乗り越えていく中で、きっと佐原のまちの人々はこれからまた新しい文化を築いていこうとしているのだと思います。
【取材協力】
・佐原の大祭実行委員会 顧問 小森孝一さん
・NPOまちおこし佐原の大祭振興協会 前会長 伊能慶亨さん
・NPOまちおこし佐原の大祭振興協会 菅井康太郎さん
・水郷佐原山車会館
【参考書籍】・川尻信夫/監修『音と文字と映像で綴る佐原山車伝説』(佐原山車伝説出版委員会、1996年)34ページ
著者:天野盛介 2018/7/20 (執筆当時の情報に基づいています)
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