アップルストアのようなガラス壁の店舗で草加せんべいを売る山香煎餅本舗「草加せんべいは埼玉人の知恵の集大成」
埼玉県東部にある草加市といえば「草加せんべい」が名産品として全国的に有名で、そんなおせんべいは日本人にとってもっとも身近なお菓子の一つだと言えます。
ところが、過去1週間におせんべいを口にしたことがあるかと問われれば、若い人たちのほとんどの人は首を横に振るのではないでしょうか。
そうした中、草加市にある山香煎餅本舗(やまこうせんべいほんぽ)は、まるでアップルストアのようなガラス壁の開放的な外観とオープンカフェが併設されたおせんべいのテーマパーク「草加せんべいの庭」を設立し、伝統ある草加せんべいを現代に蘇らせようとしています。
▼ おせんべいソフトクリームから手焼き体験まで、おせんべいのテーマパークになった「草加せんべいの庭」
草加せんべいの庭の店長である齊藤絹代さんにお話を伺ったところ、草加市内には60店舗を超える老舗せんべい店が軒を連ねる中、山香煎餅本舗は1971年創業と最後発なのだそうです。
齊藤さんは新しい店舗だからこそ新しいことができると述べていて、例えば、草加せんべいで作ったソフトクリームやドーナツの販売、さらに毎月開かれるイベントでは草加せんべいを使ったスープやパフェなどの創作料理も提供しています。
また、草加せんべいの庭では普段から予約無しで草加せんべいの手焼き体験をすることができ、草加市の小学校の校外学習で利用されたり、休みの日には親子連れが大勢訪れるのだそうです。
このように若い世代へ積極的にアプローチすることに関して斎藤さんはこのように述べていました。
「最近ではインスタグラムやラインなどを活用して、おせんべいとテクノロジーをかけ合わせています。客層にも変化が起きていて、最初は年配のお客様が圧倒的に多かったのですが、最近はファミリー層や若いお客様が多くいらっしゃいますね。」
「私はおせんべいを食べたことがない日本人なんていないと思うんです。だから、きちんと伝えれば『おせんべいって良いな』って気づいてもらえると思うんですよ。」
「おせんべいは日本人にとって身近すぎるから、きちんと向き合う機会がない。だからこそ、自分で焼いてみて、それをキッカケにおせんべいを知ってもらいたいですね。」
こうして草加せんべいの庭は店舗のテーマパーク化、イベント開催、そして新作商品の開発など、草加せんべいに知恵を加えることで若い人たちへ積極的にアプローチを続けていますが、実は、草加せんべいはこれまでの先人の知恵を具現化した食べ物だったのです。
▼ 絶対に逆らえない江戸からの命令を逆手に取り、さらに千葉まで利用して草加せんべいを完成させた埼玉の知恵
写真:草加市歴史民族資料館
草加せんべいの原料は言うまでもなくお米ですが、草加が米で栄えた背景には当時の埼玉の人々の知恵がありました。
遡ること江戸時代、川沿いの地域を中心とした江戸の街は大規模な水害に悩まされていて、江戸に被害を与えた河川の多くが埼玉を通っていたことから、江戸幕府は埼玉の人々に水路工事を命じたのです。
川の流れを変えたり水量を調節するという工事は危険と重労働を伴う作業ですが、江戸からの命令に逆らうわけにはいかない埼玉の人々は江戸のために難工事を成し遂げました。
しかし埼玉の人々はただ単に江戸幕府の命令に従っていたわけではなく、実は工事のついでに川沿いに多くの田んぼを作っていたのです。
写真:草加市歴史民俗資料館
田んぼが作られたエリアの中でも特に現在の草加市にあたるエリアは、利根川から良質な水が流れ込んでくる米作りに適した場所で、結果的に草加では米がたくさん取れるようになりました。
この時に作られた田んぼによって草加は米どころと呼ばれるようになり、ここから草加せんべいの歴史が始まります。
前述の齊藤さんによれば、草加が日光街道の宿場町として栄えていたころ「おせんさん」という女性が旅人を相手にして売っていた団子が草加せんべいのそもそもの始まりになっていると述べていました。
当時、売れ残った団子は川に捨てられていたのですが、ある日、通りすがりのお侍さんに「売れ残った団子を潰して乾かし焼き餅として売ってみてはどうか」と提案され実践したところ街道の名物になり、これが現在の草加せんべいの原型になったと斎藤さんは言います。
しかし、その当時のせんべいは現在のものとは違って醤油は塗られておらず、生地に塩を練り込んだもので、草加せんべいに醤油が塗られるようになったのは千葉で醤油づくりが盛んになってからのことです。
斎藤さんによると山香煎餅本舗では千葉県野田市の醤油を使用しているようですが、実は当時の埼玉の人々も野田市の醤油を使っていました。
千葉県野田市で作られた醤油は利根川の水運を利用して江戸に運ばれていて、江戸に向かう途中に草加に醤油が持ち込まれた際に、草加せんべいに初めて醤油が塗られたのです。
このように草加せんべいの歴史を紐解いてみれば、当時の埼玉の人々は絶対的存在の江戸の命令を逆手に取って利用するだけでなく、千葉の醤油をも利用するなど、草加せんべいには当時の埼玉の人々の知恵が込められていることが分かります。
工夫を凝らして知恵を出すという意味に関して斎藤さんは、せんべい産業だけでなく皮革産業に関しても同じことが言えると述べていました。
草加は皮革製品も主な産業の一つなのですが、これは当時の草加の人々が死んだ牛を埋めて処分するという役目を押し付けられていたことが背景にあるようです。
しかし単に牛を処分するのではなく、処分する前に死んだ牛から皮を剥ぎ取り、それを加工することによって街の産業にしてきた歴史があると斎藤さんは語っており、そういった意味では草加には「工夫」する文化が根付いていると言えるのかもしれません。
▼ 貰ったら喜んで食べるけれど自分では買わないおせんべいは、誰かに「送ってあげたい」食べ物
こうして工夫に工夫を重ねて発達してきた草加せんべいですが、斎藤さんによると、戦時中は草加せんべいにも危機が訪れたと言います。
太平洋戦争が始まると配給物資の統制によってせんべいの原材料である米がほとんど手に入らなくなってしまい、せんべい屋は次々と廃業を余儀なくされたのだそうです。
しかしそんな中でも草加せんべいの歴史を途絶えさせまいと、警察の厳しい取り締まりをくぐり抜け、危険を犯してまで闇市で米を手に入れて、どうにか現代にまで引き継いできた歴史があると斎藤さんは述べていました。
そうした草加せんべいの歴史を振り返ってみると、これまで工夫を重ねて草加せんべいを発展させ次の世代に繋いできた人々と、山香煎餅本舗の姿は重なって見えます。
斎藤さんはインタビューの終わりにこんなことを仰っていました。
「おせんべいって貰ったら食べるけど、あまり自分では買わない不思議な食べ物です。つまり、おせんべいは贈り物としての役割が強い食べ物なんでしょうね。」
「草加せんべいには、埼玉県民の知恵、草加せんべいを引き継いできた先人、そして社長や店舗スタッフなど多くの人の気持ちが込められているんです。だからこそ、おせんべいは誰かに『送ってあげたい』食べ物なのかもしれないですね。」
おせんべいは誰もが一度は食べたことがあるのに、今では少し縁遠くなってしまっているちょっと不思議な食べ物です。しかし、草加せんべいほど多くの人の思いが込められている食べ物は他にはないのかもしれません。
【取材協力】
・山香煎餅本舗 草加せんべいの庭
・草加せんべいの庭店長 齊藤絹代
【所在地】
埼玉県草加市金明町790−2
著者:高橋将人 2018/8/24 (執筆当時の情報に基づいています)
※本記事はライターの取材および見解に基づくものであり、ハウスコム社の立場、戦略、意見を代表するものではない場合があります。あらかじめご了承ください。