17歳の無名の少年の美術館がつくられた街、高崎。「人を感動させたいなんて、それはおもしろくない発想。それよりも、自分が感動したい。」
群馬県の高崎市には、13回忌を迎えてからその絵や詩が人の目に止まり、美術館がつくられた少年がいます。それは、エレキギターの練習中に感電し、17歳で亡くなった山田かまちです。
かまちの美術館は高崎駅からバスに乗って行かなければならない場所にできました。
けれど、オープンすると1年で3万もの人が訪れ、国語や美術の教科書に作品が掲載され、山田かまちは社会現象のようになったのです。
ブームは下火になったものの、ここ数年では、渋谷のヒカリエで「山田かまち展」が開催されたり、2017年に没後40周年を記念して「美の巨人たち」といった番組でかまちのことが取り上げられ、またじわじわとかまちに対する関心が集まるようになっています。
駅から遠ざかり「高崎市山田かまち美術館」に向かっていくと、観音山の大きな観音様が近づいてくる。
「高崎市山田かまち美術館」の館長、塚越潤さんは、渋谷で展覧会を開いたときのことを思い起こし、次のようにお話ししてくださいました。
「大勢の人が来てくれたんですよ。渋谷は若者の街ですから、17時以降になっても来場者が途絶えないんですね。作品を見ながら涙を流している方もおられました。20時の閉館時間になって会場を出られた後も、ガラスドアの向こうからじっと作品を見ていらっしゃったお客様の姿を、今も思い出します。」
デッサンが好きだったかまちは、中学生になった頃から内面があふれ出るような、抽象的な絵を描くようになっていった。
「この部屋にとじこもっていてはだめだ。『この部屋にとじこもっていた歌』ができてしまう。」
「人を感動させたいなんて それはおもしろくない発想 それよりも、自分が感動したい。」
これらはかまちの詩の中にあった言葉です。そうした生き方を、絵画も合わせて400という作品で表現したかまちと向き合い、自分の生き方を問い直す人は少なくないようです。
かまちの作品がこの先もずっと散り散りにならないように、長らく私設美術館だった「山田かまち美術館」は2014年から高崎市が運営するようになった。
「高崎市山田かまち美術館」には、来場者がかまちへのメッセージを記入するスケッチブックが2014年以降だけで30冊近く溜まっています。
いったいその中にはどんなことが書かれているのでしょう。
スケッチブックを開けてみると、『生きる力をもらった』『ありがとう』『自分も一生懸命生きていきます』という前向きなメッセージがあちこちに見られます。
その中に、不思議に感じるほど多く書かれていたのが、『また来ました』というメッセージでした。スケッチブックをパラっとめくってみただけでも、「2回」「3回」という言葉が目に入ります。そしてそれが、若い人の率直な言葉や、年配の人の達筆な文章にも見られるのです。
特別展やイベントが豊富で、行くたびに何か違う体験ができるような大きな美術館ではなく、「高崎市山田かまち美術館」に展示されているのは作品の入れ替えはあるとはいえ全てかまちのものであるにもかかわらず、繰り返し訪れている人が少なくないことがわかります。
一度目は恋人と、二度目は子供と…と、人生のステージが変わるとき、大事な人を連れ立って訪れる人もいる。
なぜ、かまちの作品には、いつ見ても一瞬で心をもっていかれるような力があるのでしょう。塚越さんはその理由を次のようにお話ししてくれました。
「かまちの作品は全て、展覧会とか作詩コンクールとかに出そうと思ってつくられたものではないんです。かまちが亡くなってから出て来たんです。かまちの絵や詩っていうのは、自分がかきたくてかきたくて仕方なくてかいたものなんですよね。その気持ちが作品からあふれ出ていて、見る人の心を揺さ振るんですね」
かまちは鳥の絵を描くのも好きだった。
かまちは幼い頃から「紙ちょうだい、紙ちょうだい」と親にせがんで山ほど作品をつくっていたそうですが、多くの人に向けて何かをつくったり、つくったものを発表するという考えは持っていませんでした。
それが、小学校3年生の冬休みの宿題で動物園の動物の絵を提出したところ、芸大出身の担任の先生の目に留まり、そこからかまちは、高崎市で芸術振興のために活動していた実業家の井上房一郎さんを紹介されたのです。
かまちとの出会いは井上さんにとって、よほど心躍ることだったのでしょう。かまちの前で踊りを舞い、そんな井上さんの姿をかまちは楽しそうに両親に話していたそうです。こうした縁が、かまちが亡くなったあとに作品が世に出るきっかけにもなったのでした。
小学3年生のかまちは、たった1時間の間に、53枚の動物の絵を1枚1枚描いていった。
井上房一郎さんは建築関係の会社を率いていたものの、絵を勉強しにフランスに留学したこともあるという人で、よく高崎の学校の美術の授業にも訪れたりしていたのだそうです。
実際に高校生の頃、美術の授業中に井上さんに話しかけられたことがあるという塚越さんは、次のように当時を振り返っていました。
「美術の先生の隣に井上さんがいらっしゃるのを、子供心に不思議に思っていましたね。皆が安定した職業を求めて勉強し、高度成長期に入る時代でしたが、井上さんは、都市には美術館と音楽堂がないとダメだっていう考えだったんです。」
「高崎市山田かまち美術館」は、かまちが中学浪人までして入学した高崎高校の近くにあります。あるとき、美術館にそこの高校生らしき男の子が訪れ、あまりにも熱心に張り付くようにして見ているので、美術館のスタッフが椅子を貸してあげたこともあったそうです。
かまちは小学生の時に「こういう妖怪はどうですか?」と水木しげるに手紙を出してやり取りをしていたこともある。(「上毛新聞」2018年4月7日より)
「24時間では足りない」が口癖で好奇心のかたまりだったかまちは、外国の人と文通もしていました。
そして、一人の友達から「プリーズ・ミスター・ポストマン」というビートルズの曲を教えてもらい、いろいろな音楽にも興味を持っていきました。しかし、エレキギターを手に入れてまもなく亡くなってしまったのです。
一般的には、かまちの亡くなった“17歳”という年齢の子が絵を描いたり詩を書いていたりしたら、「受験への意識が足らない」とか、ひどい時には「中二病」だとか言われるのが現実ではないでしょうか。
ところが、感動を踊りで表現することができるような感性豊かな大人たちがいた高崎という街では、10代の子どもたちが自分の思いを自由に表現することが守られてきたのです。
絵の中に、ビートルズの「プリーズ・ミスター・ポストマン」を教えてもらった文通の喜びも込められているように見える。
高崎は実のところ、15歳から19歳の女性の昼間人口が飛び抜けて多く、近郊で暮らす10代の人たちの集まる街であることがデータで示されています。
「高崎市山田かまち美術館」のように、10代がワクワクさせられるような何かを高崎の街で見つけていることは間違いなさそうです。
それに加えて、自分の中に眠っていた10代の心が呼び起こされ、10代を生き直してみたいと若返ってしまう大人も、この街には少なくないのかもしれません。
【取材協力】
◼高崎市山田かまち美術館/館長・塚越潤
【アクセス】
高崎駅西口より市内循環バス「ぐるりん」少林山線「山田かまち美術館入口」下車、徒歩1分
著者:関希実子 2018/11/15 (執筆当時の情報に基づいています)
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