下高井戸のマンション内にある映画館 「予約も席指定もない、だからこそ『日常』の中に映画が生まれる」
新宿から電車に揺られること約10分、京王線と東急世田谷線が交差するまち、下高井戸。江戸時代は宿場町として栄えましたが、いまではたくさんの店々が軒を連ねる、「商店街のまち」となっています。
そんな活気ある風景のなかに、ぽつんと構える名画座『下高井戸シネマ』。
マンションの二階に位置するこの劇場は、定員126名の1スクリーンのみというコンパクトなつくりにも関わらず、その会員数は約5,000人にものぼります。これだけの人から支持されるのは、下高井戸の人々の「日常」に入り込んでいるからなんです。
▼ 劇場は、映画の情報拠点。「上映スケジュールは、紙で郵送している」
昭和30年代前半にオープンした「京王下高井戸東映」は、時代の変遷とともに昭和63年に現在の館名になりました。平成10年ごろには存続が危ぶまれましたが、商店街から「何とか存続できないか」と声がかかるほど、地域のなかに根強くあった劇場なのです。
まちを歩いてみると、飲食店の外壁や駅のなかなど、さまざまな場所に上映スケジュールが設置されているのを目にします。劇場スタッフの山口さんは、こうした地域との関わりについて、主に「情報」がその接点になると話します。
「たくさんの場所に置いてもらっている代わりに、うちも各商店の宣伝チラシなどを置いて、相互に情報発信をしているんです。そうすると、みなさんの生活と映画がうまく結びつきますよね」
「会員の方には隔月で上映スケジュールを紙で郵送しているんです。一枚の紙に今後の情報が集約されているので、ご高齢の方には好評ですよ。それでも上映映画について電話がかかってくることも多くて、うちでやっていなくても、他の劇場を案内することもあります」
下高井戸の老舗鯛焼き屋(兼居酒屋)『たつみや』の外壁には、看板が埋め込まれている。
このように、「映画の情報拠点」としても機能している下高井戸シネマ。それだけでなく、まちの人々が劇場で実際に顔を合わせ、仲良くなるなど、結果的に交流の場となることも多いそうです。そうしたきっかけが生まれる理由を、山口さんはミニシアター特有の性質に見出します。
「大きな映画館だと『映画そのもの』を目的に観に行くことが多いと思うんですが、ここのようなミニシアターでは、鑑賞後に感想を語ったりと、『映画以上のなにか』を求めて来る人が多いんですよ」
「とくにうちの場合は『指定券』がないというのが大きいんです。なので、チケット購入後にでも仲良くなった人がいたら、隣り合った席に座ることも可能なんです」
ロードショー作品を上映する「封切館(一番館)」と異なり、すでに公開を終了した映画を流すことの多い「名画座(二番館)」。こうしたミニシアターの劇場ロビーは比較的狭いことが多く、何度も通っているうちに仲良くなるということが多くあるようです。
▼ 館内ロビーには、電車の音が薄く響く。「扉一枚で『日常』と『非日常』がスイッチできる」
とてもマンションの中とは思えない本格的なシアターが、ロビーから顔をのぞかせる。人気作品では満席になることも珍しくないという。
人は映画を観るとき、自分では決められない限定的な時間のなかに、すべての感覚を委ねることになります。暗闇のなかでスクリーンに自身を投影することで、さまざまなシーンを疑似体験し、いくつもの人生を過ごす。山口さんは、そうした『非日常』を、この劇場では手軽に味わえると話します。
「うちは『予約』という制度がないんです。当日券しか売ってないし、発券機もないんです。すべてその時間に来てもらって、その場で買ってもらう。だから『映画を観に行くぞ』と前もって準備する必要がなく、ふらっと来てもらうことが多いんです」
「道路を挟んで目の前には京王線が走ってて、ロビーにいるときには、その音が薄く響いたりするんです。でも一歩、シアターに入ればもうそこは異空間です。扉一枚で『日常』と『非日常』がスイッチできるのもここならではじゃないでしょうか」
階段を上がり、すぐに売り場が見える。館内に券売機はなく、購入場所はここに限られている。
まちの人々の生活のなかに馴染む「地域の映画館」。一方で、インターネットの普及によるコンテンツの多様化が進み、「斜陽産業」などと評される映画業界。この劇場でもそれは例外ではなく、とくに若者世代の映画離れは課題として挙がっているようです。
一方で、小学生の社会科見学や中学生の職業体験の場にもなっている下高井戸シネマ。そのような「体験」の機会が、映画を好きになってもらえるきっかけになってくれればいいと、山口さんは話します。
「普段は目にすることのない映写機やフィルムを実際に見せたりするんです。興味を持ってくれる子も多くて。いまはデジタル式なので、簡単に映写を手伝ってもらうこともできます。そのように『裏側』を実際に目で見ることで、その子たちが大きくなったときに、今度は鑑賞側として観に来てくれればと思っています」
デジタル映写機が放つライトの先には、上映中の映画が小さく覗ける。
会員の中には、この劇場のために駅沿線に越して来た人もいるほど多くのファンをもつ下高井戸シネマ。スクリーンのサイズも他の映画館と比較し見劣りするこもなく、劇場内もほどよい広さで、「この空間が好き」と感想をこぼしていく人も多いそうです。
重い腰を上げずとも、飲食店に立ち寄るような感覚でふらっと入れる地域の映画館。「日常」から解放され、束の間の「非日常」を味わうのもいいかもしれません。
【取材協力】
下高井戸シネマ/山口伸子
【アクセス】
東京都世田谷区松原3-27-26-2F
著者:清水翔太 2019/1/22 (執筆当時の情報に基づいています)
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