人口たった7300人の小さな町にある泊まれる出版社に、新しい生き方を模索する人が集まってくる

東京から約1時間半も離れた人口約7300人の小さな町、神奈川県足柄下郡真鶴町(まなづるまち)。

お世辞にも都心からのアクセスが良いとは言えないこの町に、「拡大・成長」を前提とする東京的な生き方から少し距離を置き、身の丈に合った自分なりの新しい生き方を模索する人たちが集まり始めています。

そんな彼らが町の存在を知り、実際に足を運ぶキッカケづくりを行っているのが、泊まれる出版社である「真鶴出版」です。

真鶴出版は、大学卒業後に会社員として働いていた川口瞬さんと、青年海外協力隊として海外で活動していた奥様の來住友美さんが、これまでとは違う生き方を模索するなかで真鶴に移住し、2015年に二人で創業した出版社です。

今回はそんな真鶴出版を運営する川口さん夫妻にお話を伺いました。



▼ 大手出版社のように何万部も刷らなくていい。これからはニッチな層に向けたメディアが必要だから。

学生時代のインターンで出版業務に携わっていた川口さんは、会社員時代から仕事のかたわらインディペンデント雑誌の編集者として活動しており、いつか出版を通して自分で仕事をつくりたいと考えていたのだそうです。

とは言え、日本全国にある出版社の約8割は東京に集中しており、地方で出版社を営むことは簡単なことではありませんが、川口さんはあえて地方で出版を行う面白さを次のように話します。

「これまでのメディアはピラミッド型でした。例えば、東京がトップにあってマスメディアが情報を発信して、そこから地方に広がっていくという構図でしたよね。でも、これからはその構図が大きく変わってきいます」

「東京を中心にカルチャーが発信されていた時代から、それぞれの地域が独自のカルチャーを発信していくような時代になっていくのです。だから今後はニッチな層に向けたメディアが必要になっていくと思います」

真鶴駅から真鶴出版までの道中には、道に迷わないよう手作りの看板が設置されている

「特に近年は個人の好みの細分化が進んでいます。音楽なんかでも、一昔前は紅白歌合戦で歌われるような音楽をみんな聞いていましたが、今は好みが極度に細分化されて、全員が知っている歌なんてほとんどないですよね。それは出版でも同じことが言えるのです」

「マスに向けて何か作ろうとすると何万部も刷らなければなりませんが、対象を限定することによって届きやすくなるし、そんなにお金をかけなくても成り立つのです。それにニッチな分野は大手出版社がやりたがらない。だからこそ、私たちがやる意味があるのだと思います」

▼ 出版社なのに出版物で儲けない「出版物は会社の営業マンになって、お客さんと仕事を集めてきてくれる」

真鶴出版が発行する『やさしいひもの』には、ひもの引換券が付属していて、本の購入者がひものを求めて真鶴にやって来る

川口さんが話すように、出版物は対象を絞って、ニッチな層に向けて作れば読み手に届きやすくなります。

しかし同時に、発行部数が少なくなればなるほど、それに比例して売上も小さくなるわけですが、川口さん夫妻は出版物で稼ごうとは考えていません。

むしろ出版物は自分たちの存在を認知してもらう「手段」だと來住さんは言います。

「真鶴に引っ越してきて一番最初に発行した出版物は『ノスタルジックショートジャーニー in 真鶴』という地図だったんです。これは東京からやってきた私たちが、ここなら楽しめると感じたところを厳選して載せた『主観的地図』なんです」

「行政が発行する地図は客観性や公共性をすごく重視するため、主観は排除されてしまいます。だからこそ、主観的な地図を作る意味がありました。主観的地図は真鶴に遊びに来る人の役にも立ちますが、それ以上に『私たちは真鶴のここが気に入りました』と町の人たちに向けた自己紹介の意味合いもあったのです」

出版を通じて知り合った真鶴在住の画家と協力して制作したオリジナルカレンダー。カレンダーに描かれる絵は、真鶴の人にとって身近なものが多いのだそう

続けて川口さんもこのように話します。

「真鶴出版は出版物で稼いでいくのではなく、出版物を通じて『自分たちはこういうことができます』と伝えてきました。そうすることで真鶴町役場や大手の雑誌から仕事が舞い込んでくるようになったんです」

「WEBと違って、紙の出版物は手にとって触れることができるのが大きな強みです。直接手渡したら『こんなことやってるんだ』と一発で伝わりますからね。特に町の人には、紙に印刷して見せないと伝わらないし、WEBだと実感がわかないんです」

真鶴出版には移住に関するフリーペーパーなども置いてある

真鶴出版が発行する出版物を通じて、真鶴出版の存在を知った人が遠くから宿泊に来るケースが増えてきていると來住さんは言います。

「出版物が宿泊者に向けた営業になっているんです。実際に最近はお客さんの顔ぶれがガラッと変わってきました。」

「宿を始めたばかりの頃はお客様の9割が外国人で、宿泊理由は、箱根の宿泊施設が満室だったから近くで安く泊まれるところを探していた、という方が多かったのです。でも、その割合が逆転して今ではお客様の9割が日本人で、真鶴に興味があってこの町で新しいことに挑戦したい人たちが集まるようになってきましたね」

「ただ、私たちはお客様に泊まりに来てほしいから出版をやっていた訳ではありません。出版は夫が、宿は私が、ずっとやってみたいと思っていて手探りで始めたものです。そして出版と宿の運営を二人で取り組む中で、結果的に起こった化学反応なのです」



クラウドファンディングによって、古民家を改装して宿がオープンしました。支援者の中には過去の宿泊者も含まれていると川口さん夫妻は言います。

真鶴出版に宿泊すると、1〜2時間程度の町歩きツアーがセットになっているのですが、それがキッカケで移住を検討し始める人が多いと言います。

まずは真鶴出版で1泊して、次に行政の1〜2週間のお試し移住プログラムに参加、そして最終的に移住に至るというケースも多いと川口さんは言い、その意味では、真鶴出版は真鶴に移住する人が最初に利用する窓口のような役割を果たしているのです。

大学まで東京で過ごしてきた川口さん夫妻が新しい生き方を模索するなか真鶴で始めた、泊まれる出版社。この場所をハブにして、新しいことに挑戦しようとする人が少しずつ真鶴に集まってきています。


【取材協力】

◼真鶴出版/川口瞬・來住友美

【アクセス】

神奈川県足柄下郡真鶴町岩217


著者:高橋将人 2019/2/8 (執筆当時の情報に基づいています)
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