デジタル広告によって、機械的に景色が流れていく街。チンドン屋が笑いかけ、血を通わせる街。

YouTubeにSNS、そして駅やビルのモニターなど、デジタルデバイスに囲まれた環境では、次から次へとひっきりなしに広告が流れています。

2018年には、世界の広告費におけるデジタル広告の割合がテレビ広告を抜き、ついにデジタル広告は最大の広告メディアとなりました。その勢いは、まだまだとどまる気配がありません。

少し前までは、違和感がなければ広告が目に入っても気にならないという人が多かったようですが、今ではテレビのCMを飛ばすことが習慣になったように、私たちは勝手に視野に入り込んでくるデジタル広告をなんとかしてブロックしようとし始めています。

そういった中、新宿まで目と鼻の先の中野区に拠点を置き、チンドン屋を営んでいるのは「チンドン!あづまや」の足立大樹(あだちともしげ)さんです。

チンドン屋は昭和のはじめ頃、喋ってものを売る宣伝と、ブラスバンドが街を練り歩く楽隊広告が融合して生まれた。

AIがどんどん入り込んでいる都心の広告業界において、人力、かつアナログな広告代理店業としてのチンドン屋の役割を、足立さんは次のように話します。

「今の人たちは四六時中、身の回りを近づいてこようとする情報がいっぱいある状態だから無防備ではとても生きていけないんですね。だから自分の中のシャッターをほんの少しだけ開けて、最低限自分に必要な情報だけを受け取り、それ以外は普段シャッターを閉めているんです。東京の都心であればあるほどそれが強い。」

「テクノロジーを駆使してそのほんの少しの隙間に広告を放り込もうとします。けれどチンドン屋は『北風と太陽』で言ったら、太陽を使いたい。人々に楽しんでもらって自らシャッターを少し開けてもらうんです。」

チンドン屋はステージではなく、いつも街の人と同じ目線。「どっから来たの?」「これ食べなさいよ」と話しかけられる。

「僕は『チンドンマジック』と言っているんですが、チンドン屋として街を回っていると、普段出会わないような面白い人たちが出てくるんですよ。『どっから来たの?』と話しかけられるんです。街には面白い人が必ずいるんですね。」

チンドン屋の仕事はただ珍しくて賑やかなのではなく、シャッターを開けてもらった人たちに対して語りかけることにもスキルが必要です。足立さんは、次のように言いました。

「チンドン屋が、ただ人に振り向かれるだけでは消防車が通り過ぎるのと変わりません。それでは伝えたい中身が伝わっていないんですね。だから僕らは衣装や音楽は珍しくても、話す時は家族に喋る時のようにコミュニケーションをとります。知らない人に喋るような時よりも、そういう口調の方が中身が伝わるんですよ。」

▼ 中野にあった「都会の隙間」。そこが若いチンドン屋の居場所だった。



そもそもチンドン屋は、昭和30年代にはもっともよく使われる広告の一つであり、新しいお店がオープンする時も、映画が封切られる時も、必ず呼ばれる存在だったそうです。

しかし、広告メディアがテレビや新聞・雑誌へと移行していく中で、チンドン屋を稼業とする人は急激に減っていきました。

それでもわずかに残ったチンドン屋の人たちがいて、彼らが60代にもなろうという頃、チンドン屋を見たこともない若い世代が「チンドン屋は面白そうだ」と弟子入りするようになり、その弟子たちが2000年頃から自分で屋号を構えるようになります。

そうして独立した足立さんを含め、チンドン屋を志す当時の若い世代の人たちには仕事がたくさんあるわけではありませんから、練習にスタジオを借りるほどの資金もありません。そこで、中野の駅前の空き地に集まって練習をするようになっていったのだそうです。



きれいに整備されて「空き地」は跡形もなく消えてしまった。当時のチンドン屋の若者たちは、空き地で練習をしてから居酒屋やファーストフードに流れるのが日常だった。

中野サンプラザのところにあった駐輪場脇の、なんでもないスペース。2010年くらいまで残っていたその場所には、踊りの人、漫才の人、あるいは楽器をする人などが集まり、練習をしに通って来ていました。

チンドンの練習をしている若者がスカウトされてチンドン屋の仕事に呼ばれるというようなチャンスも得られたそうで、現在東京でチンドン屋を営む方の多くが、そこでの練習の経験があるといいます。

ところが、オリンピックを前にした東京では、こうした“都会の隙間”がどんどん消されていっています。中野でも「若者たちが街に居場所をつくりにくくなっている」と足立さんは感じているそうです。

▼ 街角に現れては消える、“動くスタンプラリー”。音を追いかけて僕たちを見つけて欲しい。

チンドン屋の世界を説明したくても、ホワイトボード一枚には収まりきらない。

それでも、ミュージシャンや役者、芸人といった人たちが多く暮らし、“サブカルの聖地”として知られる「中野ブロードウエイ」もある中野の街。

中野の住宅街の中ある八幡神社でも、「大盆踊り会」という音楽フェスが年々盛り上がりを見せています。

「チンドン!あづまや」は昨年「大盆踊り会」に参加したそうですし、中野の昭和新道という飲み屋街では、もう10年以上、夜の街でチンドン屋の仕事をしてきたそうです。

普段着姿で中野を案内してくれた「チンドン!あづまや」親方の足立大樹さん「曲はだいたい楽士が決めるんですよ。それに太鼓が合わせる。だから楽士にはDJ的な側面があると捉えてるので、そういうところに一番やりがいを感じます。」

街をゆくチンドン屋の隊列は、宣伝の口上を述べる人、リズムをとるチンドン太鼓の奏者、そしてメロディーを奏でる楽士(がくし)が基本編成となっています。

足立さんは学生時代のアルバイトでサックスを吹く楽士を始め、20代でチンドン屋として独立しました。それほどチンドンの世界にのめり込んだのは、「自己表現としてよりも、人を振り向かせるための道具としての音楽をやることが好きだった」ことが一つの理由なのだそうです。

「雨が降り始めたら、雨の曲。スナックの看板があったらスナックの曲。若者が多い場所に出たら、米津玄師の『Lemon』を演奏した方が振り向いてもらえる。僕らはそうやって曲を流しながら街の中を動く事が多いので、事前に『イマココ』と正確な予告するのは難しいんですよ。それを逆に探そうとしたら面白いかもしれませんね。動くスタンプラリーみたいな…」

街の顔に合わせて、「そこにいる人」に向けて音楽を奏で、ゆらりゆらりと歩いていくチンドン屋。広告嫌いが当たり前のようになってきている都心でも、チンドン屋がいる街では人々の顔がついほころんでしまうのです。


【取材協力】

◼「チンドン!あづまや」

著者:関希実子・高橋将人 2019/2/26 (執筆当時の情報に基づいています)
※本記事はライターの取材および見解に基づくものであり、ハウスコム社の立場、戦略、意見を代表するものではない場合があります。あらかじめご了承ください。