被爆地でない国立市で、原爆・空襲体験を語り継ぐ。「戦争とカレー」という、次世代の伝承のかたち。
JR中央線で、新宿駅から西へ西へと30分。国立(くにたち)駅のある国立市は、東京で初めて文教地区に指定された街です。
駅近くには一橋大学があり、駅前の商店街にはアートギャラリーも並ぶ国立の街。
朝鮮戦争の頃、隣接する立川市の米軍基地に近いところから街が歓楽街化しそうになったこともありましたが、当時の市民や学生たちが暮らしの安心を守るために文教地区指定運動を起こし、現在は市北部の大半が東京都が定める文教地区に指定されています。
戦争体験者の話を受け継ぐ伝承者育成プロジェクトも、国立市のそうした市民の中から生まれた取り組みの一つといえるかもしれません。
そもそも国立市は被爆地ではないのですが、市在住の被爆者による原爆の話が市内の小学校などで以前から行われていたそうです。
しかし、そうした活動をしていた被爆者団体「くにたち桜会」のメンバーの高齢化が進み、実際に被爆者として体験を語ることができる人が、少なくなることが心配されていました。
「この街で被爆者自身が話をできるのは、あと数年かもしれない」と、その期限が目に見えて迫ってきたことに危機感を大きくした、当時「くにたち桜会」会長であった桂茂之(かつらしげゆき)さんは、戦争体験を語り継ぐ伝承者を育成することはできないかと市に持ちかけます。
「被爆された方は被爆地だけではなく、いろいろな自治体で暮らしている。そういった方たちの体験を、一人でも多く語り継がなければならない。」
そう考えた故佐藤一夫元国立市長は、国立市として、被爆体験の伝承者育成に取り組むことを決めました。
こうして文教地区として知られてきた国立市は、被爆地以外で被爆体験の伝承事業に取り組む唯一の自治体としても知られていくことになったのです。
▼ 大好きなカレーが食べられ、「また明日ね」と友達に会えるのが、平和ということ
木造の家を燃やすために開発された、ガソリンが詰められている爆弾、焼夷弾。その不発弾を講話の中で用いることもある。
原爆体験者のほか、国立在住の東京大空襲体験者にも協力をあおぎ、プロジェクトを通じて育成された原爆・戦争体験伝承者は、これまでで30名を超えます。
同じ戦争体験者から話の聞き取りをした伝承者でも、講話は人それぞれに異なり、その内容をどのように表現するのかは、伝承者それぞれの感性に任せられているのだそうです。
育成プロジェクトに参加し、東京大空襲の体験者である二瓶治代(にへいはるよ)さんから体験談を聞き取って東京大空襲の伝承者となった佐藤稀子(さとうきこ)さんは、どのようなことを意識して講話を組み立てているのか、次のように教えてくれました。
「当時まだ幼かった二瓶さんには好きなものがたくさんあったんです。近所の駄菓子屋さんとか、ちょっと派手なお気に入りのセーターとか。そういうのは今の子どもたちも同じだなって思ったんですね。」
「二瓶さんはカレーが大好きだったらしいんですけど、戦争でカレーって思い浮かばないじゃないですか。カレーなら私達も知っているし、今の子どもたちにも通じる。戦争という遠いものじゃなくて、同じ人間として、というところを感じてもらえる。だから、戦争の中で二瓶さんが好きだったこと、楽しみにしていたことを伝えています。」
育った宮崎の家では仏壇に兵隊さんの写真があって、裏には防空壕があり、図書館で自然と戦争の資料集を手に取るようになっていたという佐藤さん。大人になってから広島の平和式典に出た際に、遺族よりも観光客がものすごく多いことに驚いて、「生の声を聞けるうちに」と伝承者育成プロジェクトに応募しました。
戦争とカレーというように、“対比”によって伝わることがあると感じている佐藤さんは、戦争が遠い存在になってしまった現代の小学生を前に、次のように話しかけるのだそうです。
「好きな食べ物を思い浮かべてください。今日お気に入りの服を着て来ている子いないかな。今日一緒に帰るお友達、親友はいるかな?」
「二瓶さんにもいました。74年前、二瓶さんが8歳だった時に、みんなと同じように好きな食べ物があって、お気に入りの服があって、『また明日も遊ぼうね』って約束をした友達がいました。」
「東京大空襲では一晩で約10万人の人が亡くなりました。」というような一言で戦争を表すのではなく、二瓶さんという可愛い女の子がいたと知ることができたのが伝承者になってよかったことだと、佐藤さん自身、感じているそうです。
▼ 伝承は「生き物」。全く同じ語りは一つもありません
自分の上に覆いかぶさってくれた人のおかげで生き延びることができた二瓶さん。「人間らしい感情をなくさせるような時代にも、人の優しさに助けられてここまできた」という思いを胸に伝承活動を続けている。「また明日ね」と約束した友達には一人も会えていない。
佐藤さんのように伝承者となった約30名の方達は、市の定期講話や学校講話、時には地方に派遣されるなどして経験を積みながら、聞き手の反応を見て話に工夫をしています。
プロジェクトに携わっている市職員の髙橋さんと市川さんは、その場に集まった人によって変わり、回を重ねるごとに成長する講話を見てきて、伝承活動は「生き物なのかな」と思うようになったとお話されていました。
15ヶ月という長い期間の研修を経て、参加者は伝承者としての自分のあり方を考えるといいます。絵本をつくったり、紙芝居をつくったり、モンペをつくって着てきたり、広島にルーツがある伝承者が広島の言葉で語ったりもするそうです。
伝承事業のほかにも国立市では、6月21日を「くにたち平和の日」とするなど、市の事業として平和の発信に力を入れています。
また、「平和首長会議」という、核兵器の廃絶、平和な世界の実現を目指して、広島や長崎を筆頭に世界の都市や日本全国の自治体の首長が集まる組織があるのですが、この組織の国内加盟都市の総会が今年、都内で初めて、国立市で行われることが決まったそうです。
国立市役所で伝承者育成事業を担当している市職員の髙橋さん(左)と市川さん(右)
国立の、こうした平和への取り組みにはどのような思いが込められているのか、市川さんは次のようにお話されていました。
「平和というとどうしても、戦争とか、自分からすごく遠いところにあるものを連想して、ピンと来ない方がいると思うんですけど。」
「『普段の暮らしがあるのはどうしてなんだろう』って考えてもらうにはどうすればいいんだろうといつも考えていますね。『日常の平和』をキーワードにしているんです。」
▼ 洗濯物を干しながら、原爆の日のことを思う。「何か感じるということは、そこに縁があるということ」
プロジェクト参加者は、戦争体験者に聞き取りをし、プライベートの時間も使って被災地を一緒に歩く、アナウンサーの方から話し方の講座を受けるなどしながら、最終的に自分で講話を組み立てます。その内容が、実相や体験者の経験に沿っているかを確認されたうえで修了者となり、伝承者として活動を始めるのです。
電車で1時間をかけて国立に通い、伝承者となった佐藤さんには、公民館に人が集まり、地域に根付いたパン屋があり、「人の生活の営みが感じられる」というのがこの街の印象だったそうです。
そして、「日常の中にある瞬間瞬間に平和があると思う」と、佐藤さんは次のように言いました。
「広島に原爆が落とされた8月6日の朝って、陽が照ってて日差しがすごかったらしいんですね。朝、洗濯物を干していて日差しの強い日なんかに『こういう日だったのかな』って思うんです。」
「伝承者になると家族に伝えたとき、母が、『何か感じるってことは、何か縁とか、そういうものがあるんだろうからやってみなさい』と言っていたんですけど、そういう時にその言葉を思い出します。」
「何て話そう、緊張するな、嫌だなと思うこともあるんですけど、それでも講話をやり続けたいと思うのは、戦争で亡くなった人たちのことを思う日常の瞬間ですかね。」
二瓶さんが大空襲に遭う前の晩に食べたカレーのお皿。焼け野原の中にこのお皿があったことで自分の家の場所がわかったという。
講話の中で「自分の大事なものってなにかな、それがなくなったらどうかな」と語りかけてきた佐藤さん。講話後のアンケートで「ありがとう」と言ってもらうと、「こちらこそありがとう」といつも思うと話します。
広島の被爆体験について、伝承者に体験を語ってくれた被爆者の平田忠道(ひらたただみち)さんは、昨年亡くなられたそうです。
戦争体験者の生の声は時間の流れの中で奪われつつありますが、それをデータにして過去のものとしてしまうのではなく、そこから新しい生の声を育もうと、国立市から平和への努力が始まっています。
◼️取材協力
くにたち原爆・戦争体験伝承者(東京大空襲伝承) 佐藤稀子さん
国立市役所 市長室 平和・人権・ダイバーシティ推進係 髙橋さん、市川さん
著者:関希実子・早川直輝 2019/8/14 (執筆当時の情報に基づいています)
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