飛行機に乗らなくても来れる日本のフランス、神楽坂
日本に住むフランス人の間で、新宿区神楽坂は飛行機に乗らなくても気軽に来れるフランスと呼ばれているそうです。
実際に神楽坂の街を歩いていると、街の至る所に本格的なフレンチレストランから気軽なビストロまで、多くのフランス料理店を目にすることができ、必ずと言って良いほどフランス人とすれ違います。
それもそのはず。東京に住むフランス人の4分の1が神楽坂がある新宿区に在住しており、神楽坂は彼らにとって最も近い故郷だからです。
神楽坂には本当に良い物を見極めるセンスを持つ目の肥えた人が多く集まることから「センスが磨かれる街」とよく言われます。
実際、この街には数ヶ月先まで予約が取れない隠れた名店が軒を連ねており、かつてスペインに存在した三つ星レストラン「エルブジ」の後継者であるシェフが営む「セクレト」もその一つに挙げられます。
良い物を作る人、売る人、そして買う人が集まるキュレーションエリアとも呼ばれる神楽坂はいかにセンスの街になったのでしょうか。
その背景にあるのは、この街に集まってきたフランス人と、神楽坂周辺に密集する出版社が影響しているのかもしれません。
センスの街、神楽坂の歴史は江戸時代にまで遡ります。今でこそ日本のフランスの様相を呈している神楽坂ですが、江戸時代には門前町・花街として賑わっていました。
明治期まであった行願寺を中心にして門前町として栄えた神楽坂には、参拝者のための茶屋が増え、次第にお酒も提供するようになったことで神楽坂は花街としての顔を見せるようになります。その後、毘沙門天善國寺で夜店が始まり、日本初の歩行者天国が実施されました。
現在の神楽坂は休日になると歩行者天国になり、観光やショッピングの人々で賑わうことで知られていますが、江戸時代から続く歩行者天国の先駆者でもあったわけです。
山の手随一の盛り場として夜店、寄席、お座敷遊びを楽しむ人で溢れた神楽坂は当時すでに「良い物」を知っている人々に愛されており、かの夏目漱石も亡くなるまでの10年間をこの街で過ごし、『こころ』や『それから』などの名作もこの街で生まれました。
江戸時代からその時代の粋な人々に愛されてきた神楽坂は、1952年に転機を迎えます。東京日仏学院(現在のアンスティチュ・フランセ東京)の設立です。
これは当時フランス政府が運営していた国営の語学学校で、フランス文化の発信拠点として当時たくさんのフランス人が講師として日本に渡り、神楽坂エリアに暮らすことになりました。
このエリアにフランス人が多く住むようになれば、必然的にフランス人を相手にしたフランス料理屋も増え、ここから神楽坂はフレンチの街と呼ばれるようになります。
よくフランス人は芸術も、料理も、恋愛も全て教養の一部と捉え、センスを磨くことに余念がなく、食べる物や、身に付けるものに関して人一倍、高い関心を持っていると言われますが、神楽坂に集まったフランス人たちがこの街に与えた影響は少なくないはずです。
フランス人たちによってもたらされたフランス的センスと相まって、神楽坂を語る上でもう一つ重要なのが神楽坂エリアが出版の街でもあるということ。
神楽坂エリアは江戸時代から紙すきが盛んに行われていたエリアで、明治期には数多くの和紙業者が生まれ、その後も大日本印刷や共同印刷といった大手印刷工場が次々と誕生するなど紙産業の集積地としての顔も持っています。
大手の印刷工場が集積すれば、そこに出版社が集まってくるもの。実際、神楽坂エリアには講談社、新潮社、そして双葉社など誰もが一度は耳にしたことがある大手出版社が次々に集まってきました。
出版社には、時代の最先端のトレンドや面白いものに対して、常にアンテナを張っている感度の高い人々が多く働いており、神楽坂で商売をする人々は、目の肥えた彼らを満足させるクオリティを求められるわけですから、神楽坂の飲食店のレベルが総じて高いと言われるは理にかなっていると言えます。
新潮社の倉庫をリノベーションしてオープンしたファッション、雑貨、書籍、そしてカフェなどを楽しめる複合商業施設「la kagu(ラカグ)」
こうして神楽坂の歴史や周辺産業を見ていると、センスの高いフランス人と感度の強い出版業の人々たちを満足させることが求められた神楽坂が「センスが磨かれる街」と呼ばれるのは必然だったのかもしれません。
飛行機に乗らなくても来れるフランス、神楽坂。今日もこの街では各店主がより良い物を提供しようと奮闘しています。