となりのトトロの舞台となった埼玉県所沢市「宮崎駿の持つ矛盾を受け止めてくれるのは所沢だけだった」
西武線で新宿や池袋から30分ほどのところにある埼玉県所沢市は、東京のベッドダウンとして知られていて何かと地味なイメージのある街ですが、実はここ所沢市はジブリの宮崎駿監督が長年住み続けている街なのです。
宮崎監督が所沢市に引っ越すことになったのは大学を卒業したばかりの頃でした。若き頃の宮崎監督が入社した東映動画や、手塚治虫の虫プロダクションなど、当時のアニメーション業界は西武線沿線に集中しており、その沿線で宮崎監督が経済的に住める場所は家賃の安い埼玉県の所沢市しかなかったのだと言います。
しかしその後、宮崎監督は東映を退社しジブリを立ち上げるなどして勤め先が変わったことで、所沢からの通勤の便が悪くなったのにも関わらず、現在に至っても所沢に住み続けており、それは所沢を離れてまで住みたいと思えるほどの場所は他にはなかったからなのだそうです。
そんな宮崎監督が住みたくなる場所の条件とは、思わず散歩したくなるような田んぼや雑木林がある場所だと言いますが、実はそういった自然があちこちに残っているここ所沢で大ヒット映画『となりのトトロ』は生まれました。ジブリ作品に登場する景色には、所沢をモチーフに描かれたものが至るところに見られます。(1)
▼ 宮崎監督がトトロを通して伝えたかったこと「自然は人間が簡単に理解したり支配できるものではない」
今でこそ『となりのトトロ』は誰もが知る作品となったものの、宮崎監督によれば、トトロは構想の段階では商売にならないとスポンサーから相手にされなかったのだと言い、当時のことを次のように語りました。(2)
全然商売にならないって言うんで、そのまま返されたんです。でも、これはなんか日本人だからやらなきゃいけないと勝手に思ったんです。だから、最悪、自主作品としてでも『トトロ』はやらなきゃいけないんじゃないかなあってふうに、なんか思ってたことは確かですね。
となりのトトロには「忘れものを、届けにきました」というコピーが付けられていますが、文字通り、この映画には自然が多く残る所沢市で宮崎監督が感じた「日本人が忘れかけている自然観」が描かれていて、身近な日常の中で失ってしまったものを探すことが主題になっています。
常日頃から自然災害に苦しめられてきた歴史を持つ日本人は、古来から自然には人智を超えた力があり、決して人間がコントロールできるものではないという自然観を持っていましたが、土木技術の発達によって自然を支配できるという認識が広まりました。そんな中、宮崎監督はトトロを通して自然の奥深さを表現したのです。
宮崎監督がトトロを描くとき、「トトロがどこを見ているのか分からないように描いた」と述べているように、トトロの顔をよく見てみると、確かにいつも目の焦点が合っていなくて何を見ているのか、あるいは何を考えているのかが読み取れません。(3)
それが何を意味しているかと言えば、土地開発などで安易に自然をコントロールしようとする現代人に対して「自然は奥深く、人間が簡単に理解したり支配できるものではない」というメッセージをトトロと自然を重ね合わせて伝えようとしていたのです。
人間の理解をはるかに超えた存在である偉大な自然に人間が気安く手を加えることに違和感を感じている宮崎監督は、所沢市の自宅近くにある淵の森と呼ばれる雑木林が宅地開発されそうになった際、3億円を投じてこの雑木林を買い取って所沢市に寄付し、さらに自身が会長を務める「淵の森保全連絡協議会」を立ち上げてこの林を維持する活動を続けています。
宮崎監督はこの所沢の自宅近くの雑木林の中を歩きながら映画の構想を練ることで知られていますが、ジブリ映画について以前こんなふうに述べていました。(4)
はっきり言いたいのは、(ジブリ作品に描かれている)あの時代が懐かしいから作ったんじゃありません。やはり子どもたちがあの作品を見たのをきっかけにして、ふと草むらを駆けたり、ドングリを拾ったりしてくれないかなと。
恐らく宮崎監督がジブリ作品を通して伝えようとしていることは、単に自然を敬えという呼びかけではなく、自然がまだたくさん残っていた時代に日本人がどのように生きてきたのか、そしてその自然が失われることで私たちが何を失ってしまったのかを考えるべきだ、ということなのではないでしょうか。
市内面積の半分が自然で覆われている所沢市のような街に住んでいれば、夏にはセミの鳴き声がうるさいと愚痴をこぼしたり、もしくは秋になり美しい紅葉に感心したりと、無意識のうちに思考が自然に向く一方、大都会の人混みの中で生活をしていれば、常に人間のことばかり考えるようになり、その延長線上にイジメなど人間関係のトラブルがあるのでしょう。
例えば、24歳になった女性が14歳のときにイジメにあって自殺しようとした時のことを書いた『14歳の私が書いた遺書』という本があるのですが、その中には、桜が咲いたとか台風が来たというような自然に関する記述は一つもなく、一方で「先生がこう言った」とか「友達がああ言った」というような人間関係の話ばかりが綴られており、結局、日常から自然が失われることによって私たちの世界は急激に窮屈になってしまうのです。(5)
所沢市の藤本正人市長によれば、所沢市は住宅地を取り囲むように農地や雑木林があり、所沢市の面積のうち農地が24%、トトロの森がある狭山丘陵などの緑地が12%を占め、その他の草地なども含めれば市内の45%に自然が残されていると言います。
そしてこれらの緑地を全て合計すると、その面積は西武ドーム750個分にもなると言いますが、本来人間が住む場所にはこれくらいの緑がなくてはならないのかもしれません。
▼ 大自然と飛行機という矛盾を許容する所沢は宮崎作品に大きな影響を与えた
宮崎監督が以前3億円でゼロ戦を買おうとしたところ、奥さんに怒られたというエピソードは有名ですが、実は宮崎監督の住むここ所沢市は日本初の飛行場の跡があり、日本の航空産業の歴史が始まった街なのです。(6)
所沢航空記念公園の敷地内にある所沢航空発祥記念館には数多くの飛行機や戦争兵器が展示されており、こういった施設も飛行機マニアの宮崎監督が所沢に住み続ける理由の一つなのかもしれません。
宮崎監督のこれまでの作品を振り返ってみると、『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』、そして『となりのトトロ』など、どの作品も一貫して自然との共存や平和をテーマとしてきた一方で、近代産業や戦争の象徴とも言える「航空機」を異様なまでにリアルに描くという点も宮崎作品の特徴です。
例えば、『紅の豚』に登場する飛行艇は、第一次世界大戦後の当時では旧型となった木製の機体に、ロールスロイス製のケストレルという700馬力の航空機用エンジンを搭載し、7.92mmシュパンダウ機関銃で武装するといったような、素人には全く理解できない細かい設定をしていることから、宮崎監督が自然や平和を愛する一方、誰よりも戦争兵器や飛行機に興味を持っていることがよく分かります。
宮崎監督がここまで飛行機を愛する理由はその生い立ちにあるようです。と言うのも、宮崎監督の実家は第二次世界大戦中にゼロ戦を製造していた三菱重工の下請け工場を経営しており、この工場は軍需産業の一員として飛行機の部品を組み立てていました。
戦争は大嫌いだったものの、宮崎監督は戦争のおかげで日本中が物資不足で苦しんでいる時代に、軍需産業で儲けている親の元でぬくぬくと育ったと言います。
宮崎監督はその当時のことを「父親は戦争が大嫌いだったけれど、軍需産業の一翼を担って大儲けしたという矛盾をまったく気にしない人だった」と振り返っており、さらにその気質は監督自身も受け継いでいると述べていて、確かに、それは宮崎作品独特の自然と飛行機の組み合わせを見れば一目瞭然です。(7)
こうして考えてみると、宮崎監督の「自然と飛行機」という矛盾した趣向を受け止め、満たしてくれる街はここ所沢市しかなかったのかもしれません。
よく考えてみれば、所沢市は前述したように市内面積の約半分に自然が残っているトトロが生まれた街であるのにも関わらず、皮肉にも自然環境を破壊する要因にもなった日本近代産業の象徴である航空産業もここ所沢から始まったという、矛盾した二つの事実を抱える街なのです。
ただ、光があるところに必ず影が存在するように、矛盾する二つの事実というものは恐らく一つの事柄の表と裏の関係と言えるでしょうから、むしろ矛盾は存在して当たり前なのかもしれません。
実際、自然愛好家の多くは自然の尊さを訴えかける一方で、そんな彼らはエアコンの中に浸かり、車や電車を使って生活しているように、人間は自然がないと生きていけませんが、同時に現代社会の豊かさは自然を犠牲に成り立っているという矛盾の中に私たちは生きているのです。(8)
環境保全の重要性が増している最近の論調として、都市化など近代の人間社会を強く否定し「悪いものを取り除けばこの世の中は良くなる」という考え方が一部で広がっている一方で、都市社会を完全に否定するというのはあまり現実的な考え方ではないでしょうから、田舎と都市とで上手くバランスを取れば良いのではないでしょうか。
もう何十年も所沢市から都内への通勤を続けている宮崎監督は、実は映画『となりのトトロ』の中で、この先どんなふうに暮らしていけば良いのかという答えをきちんとを示してくれています。
映画の中で一家は田舎に引っ越しましたが、お父さんは仕事を変えておらず、家は田舎、仕事は都会というふうにバランスを取り、どちらかに偏るのではなく田舎と都会を結ぶという新しいライフスタイルを見出したのです。(9)
昨今、一極集中と田舎への移住が盛んに議論されるようになり、最近の人たちはすぐに都会、あるいは田舎と選択を焦って決めてしまいますが、本当は都会と田舎の両方を適当に行ったり来たりするのが、もっとも快適なのかもしれませんし、そうした生活を送れるのが都内へ30分程度でアクセスできる所沢市なのでしょう。
そう考えれば多少通勤に手間がかかったとしても、宮崎監督がもう何十年も所沢市に住み続ける理由がよく分かります。
参考書籍
トリコガイド編集部「持ち歩ける所沢・東村山本」(エイ出版社、2015)P67
宮崎駿「風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡」(文藝春秋、2013)Kindle
ニューズウィーク日本版編集部「宮崎駿が世界に残した遺産」(CCCメディアハウス、2014)Kindle
宮崎駿「出発点―1979~19 96」(スタジオジブリ; 第20版、1996)P490
養老孟司、C.W.ニコル「「身体」を忘れた日本人 JAPANESE, AND THE LOSS OF PHYSICAL SENSES」(山と溪谷社、2015)Kindle
トリコガイド編集部「持ち歩ける 所沢・東村山本」(エイ出版社、2015)P66
宮崎駿「出発点―1979~1996」(スタジオジブリ; 第20版、1996)P250
養老孟司、宮崎駿「虫眼とアニ眼」(新潮社、2008)P59
佐々木隆「「宮崎アニメ」秘められたメッセージ ~『風の谷のナウシカ』から『ハウルの動く城』まで~」(ベストセラーズ、2005)Kindle
著者:高橋将人 2018/2/25 (執筆当時の情報に基づいています)
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