寝る前に「おやすみなさい」と言える。銭湯のある街、日暮里。

50年前、単純計算でも800平方メートルごとに銭湯があるというほど銭湯だらけだった東京では、すでにその4分の1にまで銭湯の軒数が落ち込み、ここ数年では毎週1軒ずつ銭湯が消えているそうです。(1)

そんな中でも日暮里では駅の東口を出ていくと、500メートルと置かずに銭湯が点在しています。



これほどお風呂のある住まいが当たり前になった時代に、どのような人が銭湯に通ってくるのだろうと疑問に思ってしまいますが、日暮里にある「雲翠泉」という銭湯が一番のお気に入りだという祝茉莉(しゅくまり)さんは、芸能活動をしながら銭湯で働いていて、銭湯好きになったきっかけを次のように話していました。

「すごい田舎なところから東京に出てきたんですけど、ちょっと寂しいというか、ホームシックにかかっちゃったんですよね。そんな時、ふらっと東京の銭湯に行ったら、帰り際に『おやすみなさい』って言われたんです。」

「人に『おやすみなさい』って言われてから寝るのって、とても久々だったんですごい感動しました。そこで『あ、お風呂屋さんで働きたいな』って思ったんです。」

急速に再開発が進んでいる日暮里ですが、ほんの一言二言を交わしあう人の温もりが、この街の人の心を豊かにしているところがあるのかもしれません。



日暮里の銭湯「斉藤湯」には、釜焚きや風呂掃除のほか、お客さんの背中を流し、軽くマッサージをしてあげる“三助”(さんすけ)という仕事がほんの数年前まで残っていました。

2009年に放映されたCM「サントリーBOSS 贅沢微糖『銭湯』編」で、斉藤湯で日本最後の三助として働いていた橘秀雪さんが登場し、俳優の伊藤淳史さんの背中を流すシーンは大きな反響を呼び、自分も背中を流してもらいたいという人が、日本全国から日暮里までやってきたそうです。

東京に銭湯が次々と生まれた戦後の時代を生きて、谷川俊太郎と並ぶ詩人として知られた田村隆一はかつて「銭湯すたれば人情すたる」と言っていましたが、銭湯どころか、日常生活の中でいろいろなことがネットで完結し、どんどん人同士の触れ合いが失われているのが今の社会です。



スーツを脱ぎ、ただの人間同士になって言葉を交わす…そういう場は今時すごく希少で、そこに気づいた人たちにとって銭湯の存在価値は、とても高いものになっているような気がします。

日暮里で子ども時代を過ごした片岡鶴太郎さんは、「銭湯には、いつも3時間はいた」と言い、潜りっこをして遊んだことや同級生の女子が男湯に入ってきてドキドキした話などを著書「今日も日暮里」で綴っています。(2)

そして日暮里での日々を、「思い出すたび『にっこり』と微笑んでしまう優しさが、その街にはあった」と思い起こしながら、「日暮里育ちのボクは『にっこり』を、ボクを観てくれている人たちに、届け続けたい」と述べていました。(3)



お湯を浴びても大丈夫なスマホや防水スピーカーも登場し、お風呂タイムを充実させるグッズが次々と生まれている中で、銭湯に行ったこともない人が「よし、銭湯に行こう」と思い立つ機会はあまりないのかもしれません。

そんな現代の人の目に、人々が銭湯で「おやすみなさい」と交わし合って日が暮れていく街は、なんだか昭和の映画のように映るのでしょう。

ですが、昔ながらの銭湯のある日暮里のような街では、そういうシーンのある暮らしは手の届かないものではなくて、銭湯の暖簾をくぐってみれば、誰だって今日から始められることなのです。



参考資料

田村 祐一「銭湯の番台が心がけている常連さんが増える会話のコツ」(プレジデント社 2015年)Kindle
片岡鶴太郎「今日も日暮里」(徳間書店 2013年)p134
片岡鶴太郎「今日も日暮里」(徳間書店 2013年)p10、25
笠原 五夫「東京銭湯三國志 」(文芸社 2013年)


著者:関希実子 2018/2/23 (執筆当時の情報に基づいています)
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