ホンダ、ヤマハ、そしてスズキ創業の地、静岡県浜松市「成功の秘訣は根性に理系知識を付け加えること」

東京から新幹線ひかりに乗って1時間半くらいのところにある静岡県浜松市は、徳川家康の時代から続く「出世の街」として知られています。

大手自動車メーカー、スズキの鈴木修会長兼社長は浜松にいなければ出てこない発想があると考えており、実際、ホンダ、スズキ、そしてヤマハなど浜松生まれの世界的企業の名前は挙げれば切りがありません。

このように浜松から世界的企業が次々と誕生し、浜松が出世の街と呼ばれるようになった秘密は、どうやら浜松市中心部にある浜松城にあるようなのです。



もともと浜松城は徳川家康の天下統一への足がかりとなった城で家康が29歳から45歳まで過ごした城として有名ですが、そんな浜松城からは26人の城主が誕生し、天下統一を成し遂げた徳川家康を始めとして、城主の中から幕府の重役に出世した者は10人にも上ったと言われています。

しかも浜松城には全国あちこちから優秀な城主が選ばれて、早い人だと2年から3年であっという間に出世して浜松から出ていってしまったと言い、それが浜松城が出世城と呼ばれる背景にあるようです。

▼ 殿様に頼れない時代や空襲で焼け野原を経験した浜松には、「やってやろうじゃないか」精神が根付いた


(写真:本田宗一郎ものづくり伝承館)

ただ、あっという間に出世してコロコロと城主が変わってしまう浜松城の状況が浜松の人々に与えた影響は少なくなかったと言います。

と言うのも、コロコロと城主が変わってしまう浜松では、庶民が歴代の殿様にほとんど親近感を抱くことはなく、さらに殿様に媚びるような気持ちも生まれなかったために「自分たちでどうにかしなければ」という気質が根付いたのだそうです。(1)



そこで主役となったのが職人で、後に浜松は鍛冶町、大工町、そして伝馬町を中心として発展していき、日本を代表する技術集積地としての下支えとなりました。

その職人気質は途絶えることなく引き継がれており、例えば、静岡大学工学部の前身である浜松高等工業学校の助教授だった高柳健次郎さんは1926年に世界で初めて電子式テレビジョンの送電・受像に成功します。

さらに遠州機械、鈴木式織機(現在のスズキ)、そして日本楽器(現在のヤマハ)などの企業が浜松で生まれ、これらの企業は戦時中には戦闘機の部品の生産にも携わることとなったのです。



ところが、ものづくりの街として軍需産業に深く関わっていた浜松は空襲の標的となってしまいました。

そして1944年から終戦までの間に浜松は27回もの空襲を受け、終戦間近の空襲によって市域の92%が破壊されるなどして焼け野原になってしまったのです。

そうして戦後の浜松は文字通りゼロからのスタートを切ることになりました。


(写真:スズキ歴史館)

浜松人の気質を見事に表した言葉に「やらまいか」というものがあります。

これは浜松で「やってやろうじゃないか!」という意味合いで使われる言葉で、大企業の創業者や起業家を数多く輩出した浜松精神を象徴した言葉ですが、この街で戦後に会社を始めた一人にホンダの創業者、本田宗一郎が挙げられるでしょう。

本田宗一郎は、浜松市の三方原台地に設置された陸軍航空隊の飛行場に放置されていた無線機用発動機を改良して、それを自転車に取り付けることで現在のバイクの原型を作り出したのだそうです。(2)

そうしてスズキやヤマハなど浜松に拠点を置く企業が続々と技術開発によって、戦後の産業を生み出していったわけですが、それには浜松に点在する理系の教育機関が大きく影響を与えていると言われています。

▼ 浜松にテクノロジーで出世を遂げた起業家が多いのは、浜松が理系の街だったから



浜松にある教育機関というのは理系の勢力が圧倒的に強く、例えば、浜松市の最高学府である浜松医科大学や静岡大学工学部などは理系の大学で、さらに浜松でトップの進学実績を誇る浜松北高校では1学年の半数以上が理系なのだそうです。(3)

国立教育政策研究所の報告によれば、全国の高校生の46%が文系、22%が理系、その他が32%だということが判明しており、それを考慮すれば、浜松の教育機関が突出して理系に特化していることがよく分かります。



浜松に点在する理系の教育機関は地元企業の技術革新に大きく貢献することになりました。

前述の本田宗一郎は、全国的に有名な修理工として当時の総理大臣と変わらないほどの収入を稼ぎ、さらに修理だけでなく部品の製造にも着手し始めましたが、製造した3万個の部品のうち実際に納品できるレベルに達していたのはたったの3個だけだったことから、浜松高等工業学校の聴講生となります。



そこで本田宗一郎は新たな技術開発は根性だけではどうにもならないと悟ったとして次のように語ったそうです。(4)

「いよいよこれは、とてもズブの素人がやったってだめだ。どうしても学問をやらなければ歯が立たない。奉公したり、器用なくらいじゃ追いつかないと思って、学校へ入ったんだ。夜の学校にね。昼間は仕事をして二年やった。」



こうして本田宗一郎は、ピストリングの生産を軌道に乗せるまでの2年間を浜松高等工業学校で聴講生として通い、見事、事業を成功させることができました。

また、浜松高等工業学校の力を借りたのは本田宗一郎だけではなかったのです。

大手自動車メーカー、スズキの社長である鈴木修さんはスズキの成功は浜松高等工業学校を抜きには語れないと述べており、スズキだけでなく、ホンダやヤマハに関しても戦後すぐのころは99%の製品が浜松高等工業の学生によって設計されたとしてこのように語っていました。

「何かやろうとした努力はあるんですけど、戦後は旧制浜松高等工業学校という静岡大学の今の工学部の前身。あれがあったからですよ。勉強ができたということね。学問ができた。」



浜松は今でこそ産業と学術研究が調和のとれたテクノポリス(技術集積都市)と呼ばれるようになったと言われています。(5)

しかし、その根底にあるのは、浜松の「やってやろうじゃないか」という根性と、それを下支えする学問が両立していたからに違いありません。

浜松という街は、東には東京、西には名古屋という大都市があり、さらに東海道新幹線のぞみが停車しないこともあって、何かと無視されがちですが、そんな街だからこそ「やってやろう」という精神が根付いたのも事実でしょう。

徳川家康が浜松で下積みを行った後に江戸で大成したように、本田宗一郎を始めとする浜松出身の企業や起業家たちも東京に進出していきました。

そうやってヒト・カネ・モノの3つがどんどん東京に集まってくる時代だからこそ、それらがどこからやって来るのかをしっかりと見極めたいものです。

【参考書籍】

(1)地域批評シリーズ編集部、松立学、鈴木和樹『日本の特別地域 特別編集49 これでいいのか 静岡県 浜松市』(マイクロマガジン社、2013)Kindle

(2)瀬川久志『国際化と躍進する地域経済 テクノポリス浜松」(瀬川久志、2013)Kindle

(3)地域批評シリーズ編集部、松立学、鈴木和樹『日本の特別地域 特別編集49 これでいいのか 静岡県 浜松市』(マイクロマガジン社、2013)Kindle

(4)片山 修、片山修 (編集)『[新装版]本田宗一郎からの手紙 現代を生きるきみたちへ』(PHP研究所; 新装版版、2007)Kindle

(5)瀬川久志『国際化と躍進する地域経済 テクノポリス浜松」(瀬川久志、2013)Kindle


著者:高橋将人 2018/6/22 (執筆当時の情報に基づいています)
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