「太宰が生きたまち、三鷹」は、“太宰アレルギー”を克服しようとする市民の力で支えられている。

2017年にブックオフがおこなった文豪人気投票で夏目漱石と同率1位になった文豪、太宰治。ほかにも、大ヒット漫画『文豪ストレイドッグス』の人気キャラ投票で1位をとったりするほど、現代の人々から支持を集めています。

その太宰の作品の半数以上が生まれた場所が、JR新宿駅から中央線で約20分のところにある三鷹の街です。2008年には太宰の死後60年を記念し、三鷹に「太宰治文学サロン」が開設されました。

太宰ゆかりの地として知られるようになった三鷹ですが、この街で昔から暮らしてきた人々の中では太宰の印象はネガティブな方に傾いていて、「太宰治文学サロン」の開設にも反対する住民もいたのだそうです。

太宰はこの三鷹の地で、約90編の小説を生み出した

「太宰治文学サロン」につとめる学芸員の吉永麻美さんにその理由をうかがったところ、それは太宰が入水したのが三鷹の玉川上水で、太宰が亡くなった当時、その遺体を探すために一週間もの間、止水されることになったことも要因の一つだということでした。

この地域の農地や家庭は玉川上水から水を引くなど、生活用水としての役目を果たしていましたから、水が出ない日が何日も続いたことで市民が大きな迷惑を被ることになったのは言うまでもありません。

現在、玉川上水沿いは「風の散歩道」として整備され、三鷹のシンボルロードとなっている

いつしか、太宰を敬遠するようになってしまった三鷹の人々。ですが、全国の書店に全集が並び、翻訳作品が世界に出回るなど太宰作品の影響力を認めざるを得ないところもあり、自分たちの中に消えることのなかった太宰の記憶を使うことで逆に、太宰による町おこしを認めざるを得なくなっていったのです。

そして今、「太宰治文学サロン」や三鷹駅前のゆかりの地を案内するボランティアの中には、太宰の熱狂的な読者ではないのにもかかわらず、三鷹を太宰で盛り上げようと自発的に勉強をしている人が多いのだそうで、吉永さんも次のように述べていました。

「今ボランティアは45人います。太宰に興味がない人も皆、すごく詳しい。太宰に心酔してしまうと、平たく客観的に情報を伝える力に欠けることもあるでしょうから、こういう方がいいのかなと思う時もあるんですよね。」

「太宰治文学サロン」の学芸員、吉永麻美さん

「太宰で何やってんの?街がお金かけて…」と今でも言われることがあるという吉永さんですが、一方で「太宰治文学サロン」のある三鷹の街は太宰の生きた証を求めて20代の若者から、中国で太宰を研究している学生まで、さまざまな人々が訪れる聖地のようになっていることを実感しているといいます。

太宰作品というと、芥川賞を受賞した又吉直樹さんも10代の頃に読んで衝撃を受けたという『人間失格』が有名ですが、この作品は太宰が三鷹で亡くなる少し前に書かれた作品で、三鷹初期・中期のハッピーエンドも多かった太宰の作品とは異なっています。



晩年の太宰はというと、ベストセラー作家として、“津島修治”としての自分の実像よりも“太宰治”としての姿の方が世間のイメージとして定着していました。

のんびりとした村だったのが、しだいに軍需産業が発展していった三鷹の街で、仲間が戦地に赴くかたわら、召集を免れた太宰は、検閲が厳しくなる中でも書くことを使命と感じ、精力的に執筆を続けたそうです。

しかし、愛弟子が戦死したり、特に戦後は作品が売れるほどに批判を受けたりで、“売れっ子作家”ではない実物の太宰は苦悩の塊だったのです。



そして現在、SNSの普及した世界で人々は、次々と流れてくる友達の楽しそうな投稿やインフルエンサーの投稿など、その一部分を現実の全てのように錯覚するようになりました。

SNSで誰もが実像ではない、自分のイメージをつくることができてしまう世の中だからこそ、今の若者たちは世間に受け入れられない実物の太宰を苦しめた孤独感のようなものを、自分のことのように感じ取ることができるのかもしれません。

太宰ファンとなり、太宰の足跡を辿ろうと三鷹を訪れる人たちは、太宰アレルギーが完全に消え去ったとはいえないこの三鷹で太宰ガイドをするボランティアたちから、“文豪”としてイメージ化された太宰ではなく、とても人間くさい太宰の姿も知ることになるのです。

太宰はこの階段を上がり、陸橋から電車や富士山を眺めるのが好きだった

太宰がいた頃は人口が1万人台だった三鷹は、今や人口18万人を超える一大都市となりました。

「文学の街」をここまで大きくすることができたのは、太宰アレルギーの克服をきっかけとして、三鷹の発展を願う一体感が人々の間に生まれたからということもあるのかもしれません。

「私も一年中やっていると、いやになることもありますよ。」という吉永さん。街のために太宰文学を勉強し、街中をガイドできるほどに知識を蓄えた市民の方々が、トラブルメーカーだった太宰を、“三鷹のヒーロー”として立派な観光資源へと変貌させたのです。

かつて三鷹が村だった頃、太宰があえて都心から距離を置ける三鷹の街を選んだように、都心で成功して地方へと移住する人々に注目が集まっていますが、三鷹にいると、その街の人々がとらえる姿こそ、本当のその人の姿なのだと教えられる気がします。

【取材協力】

太宰治文学サロン


著者:清水翔太 2018/10/26 (執筆当時の情報に基づいています)
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