350年の歴史を持つ酒蔵を改装して映画館を作ったら、年間5万人の観光客が訪れるようになった埼玉県深谷市
新宿から1時間20分くらいのところに「深谷ねぎ」で有名な埼玉県深谷(ふかや)市という街があるのですが、初めて深谷駅に降り立った人は深谷駅の外観が東京駅にそっくりなことに随分と驚くかもしれません。
深谷駅が東京駅にそっくりなのは1996年に東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフに改築されたからで、そのルーツは明治時代にまで遡ります。
深谷は明治時代に日本初の機械方式によるレンガ工場が建てられたレンガの街であり、実は東京駅、日本銀行、そして東京大学など近代日本を代表するレンガ建築は深谷で生産されたレンガを使用して作られたのです。
そうした背景があって深谷駅は改築の際にレンガが使われることとなりました。
興味深いことに、この深谷のレンガ事業の設立に携わったのは、東京証券取引所や第一国立銀行を始めとする500以上の多種多様な企業設立に貢献した日本資本主義の父、渋沢栄一だったのです。
そんな渋沢栄一は実は深谷の出身で、さらに深谷で設立したレンガ事業が東京の発展を支えてきたことを考えれば、近代日本を語る上で、深谷の存在はなくてはならない存在だったと言えます。
そして現在、深谷では映画産業が次なる産業として盛り上がりを見せつつあるようです。
▼ 深谷の映画産業はネギとレンガの延長線上にある「深谷の良質な大地に『文化』の根を張り巡らせる」
深谷には旧七ツ梅酒造と呼ばれる江戸時代に栄えた酒蔵があって、七ツ梅酒造がある3000㎡の敷地内には江戸時代から昭和初期までに建設された様々な蔵が残っており、中には350年の歴史を持つ蔵もあります。
それらの一部には前述した深谷レンガが使われている蔵もあるのですが、それらの蔵の一つを改装して「深谷シネマ」と呼ばれる映画館が作られました。
今回お話を伺った深谷シネマの館長である竹石研二さんは、深谷のレンガ産業が街のハード面を形成してきた一方で、深谷には映画産業によって文化というソフト面を作り出す力があるとしてこのように述べています。
「深谷はネギが有名な農業が主の街です。農業は英語で『アグリカルチャー』と言いますが、根を張る大地(アグリ)があるからこそ、そこに文化(カルチャー)が根付くのです。」
「つまり、深谷では大地と文化が一体なんですよ。深谷がレンガの街として栄えたのも、もとは深谷の土が良質だったからです。だから私は深谷の大地に『文化』という根を張り巡らせたいと思っています。」
このように竹石さんは深谷の映画産業をこれまでのネギやレンガの延長線上にあるものだと考えていて、さらに「映画館は街の必需品」だとも語っていました。
竹石さんは東京の墨田区の生まれですが、竹石さんによれば当時の元気な商店街の一角には必ずと言って良いほど商店街があって、映画館と商店街とが一緒になって街の賑わいを作っていたと語り、それは全国の商店街に当てはまることだと言います。
ところが、時代が進むにつれてテレビ、レンタルショップ、そしてシネコン(映画の複合施設)の台頭により街から映画館が姿を消し始めました。
竹石さんは、町に寄り添った市民の映画館が失われたことによるもっとも大きな弊害は商店街の衰退だと語ります。
と言うのは、映画館は一度行ったら終わりではなく継続的に足を運ぶ施設であるため、定期的にお客さんが映画館に足を運ぶことでその商店街は人で賑わうことになりますが、そんな映画館が商店街からなくなれば継続的に足を運んでくれるお客さんの数は随分と減ってしまうからです。
ここ深谷シネマでも年間2.5万人の観客が訪れ、さらに週末のイベントでの観客も合わせれば1年間で5万人ものお客さんが深谷シネマにやって来ると言い、5万人の人が来るか来ないかで街の雰囲気は大きく変わってくるのだそうです。
とは言っても、インターネット上で気軽に映画を観ることができるこの時代に、わざわざ時間とお金をかけて映画館に足を運ぶ理由はあまり多くないのかもしれません。
しかし、竹石さんは斜陽産業と呼ばれる映画館でしかできないことがあると言い、それは人と人を繋げることだと述べていました。
▼ 斜陽産業と呼ばれる映画館にしかできないこと「人が繋がる場を提供することが映画館のあるべき姿」
深谷シネマは酒蔵を改装して開館する際に深谷市民から1000万円もの寄付をしてもらったこともあり、深谷シネマを人々が繋がる場にしたいと考えています。
人と人を繋げるというと何か大げさなものをイメージしてしまいますが、深谷シネマが考える「繋がる」とは他者と一緒に同じ映画を観ることにあるのだそうです。
と言うのも、映画館で映画を観ることで、自分が笑わなかったシーンで他の人が笑わなかったり、あるいは同じシーンで笑ったりなど、同じ作品を他者と一緒に観ることでそこに心地よい緊張感と目に見えない「連帯感」が生まれると言います。
さらに映画で繋がるのは観客同士だけではなく、深谷シネマでは観客と映画の作り手との関係性も重要視しているのだそうです。
深谷シネマ館長の竹石さんによれば、映画館のスクリーンのサイズが人間の等身大(約2m)よりも大きく設計されているのは、それよりも小さいと観客が感情移入できず、また映画の作り手もそれを前提に映画を制作しているからだと言います。
これは言い換えれば、映画館という場所が映画の作り手のメッセージを観客に伝達するためにもっとも効果的に設計されている空間だということを意味していると竹石さんは語っていました。
そうした考えを踏まえて、深谷シネマでは定期的に映画監督に来館してもらい観客とのコミュニケーションの時間を設けているのだそうで、これまでにはジブリの故・高畑勲監督や、『男はつらいよ』で有名な山田洋次監督が来館したと言います。
また、映画を観たあとに食事ができる場所を作りたいと考えた竹石さんは、深谷シネマがある旧七ツ梅酒造の敷地内に飲食店を誘致したのです。
誘致された飲食店の内の一つである「シネマかふぇ 七ツ梅結い房」の店主、戸坂亮司さんに当時のお話を伺ったところ、こんなふうに語りました。
「深谷シネマがここにオープンした時に、食事ができるようにって協力を頼まれてここに店を出したんですよ。大昔の蔵ですから、仲間に助けてもらって手作りで改装したんです。」
「オープン日は2011年11月11日なんです。(深谷シネマ館長の)竹石さんがどうしても11月11日にオープンしてくれと言ってきて(笑)それは11月11日があの渋沢栄一の命日だからなんです。」
竹石さんはインタビューの最中に、冒頭で説明した日本資本主義の父である渋沢栄一の名前を口ずさみ、少し照れくさそうに「自分の中にも渋沢さんの血が入ってるんじゃないかな(笑)」と述べていました。
渋沢栄一は「あらゆる事業は人を幸せにしなければならない」と考える人だったと竹石さんは言い、渋沢栄一の意思を受け継ぎ、映画が持つ可能性を深谷から広めていきたいと語ります。
ネットで映画が観られる時代において、この先の映画とはただ映像を観るだけの行為ではなく、人と人とを繋げるツールとしての役割が大きくなっていくのかもしれません。
都心から1時間離れたこの深谷という街で、斜陽産業と呼ばれる映画館のカタチが少しずつ変わりつつあります。
【取材協力】
・酒蔵の映画館 深谷シネマ
・シネマかふぇ七ツ梅結ぃ房
【参考書籍】 ▪渋沢栄一(著), 実業之日本社(編集)『富と幸せを生む知恵』(実業之日本社、2012)Kindle ▪神谷 雅子(著)『映画館ほど素敵な商売はない』(かもがわ出版、2007)▪斉藤 守彦(著)『映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?』(ダイヤモンド社、2009)▪朝日新聞(著)『スマホ捨て、映画館へ行こう シネコンを凌ぐ魅惑の小屋たち』(朝日新聞社、2014)Kindle ▪加藤幹郎(著)『映画館と観客の文化史』(中央公論新社、2006)Kindle
著者:高橋将人 2018/7/4 (執筆当時の情報に基づいています)
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