向島でオーダーメイドの服を売るバー。「流行はダサい。だから、うちでは『個性』を売る」
スカイツリーが見下ろすまち、墨田区向島。観光客で賑わうソラマチ周辺を抜けると、そこには住宅街が広がっています。マンションや戸建ての家が連なるその一角に、突如として現れる煌びやかな外観。『Ipcress Lounge』と名付けられたバーは、「服を売るバー」として日本、ひいては世界にその知名度を誇っています。
もともと恵比寿で会員制の服屋を営業していたというマスターの阿部さんは、服を購入してくれたお礼にコーヒーなどの飲み物を提供していたことから、このバーの着想を得たと言います。
▼ 飲みながらその場で採寸・試着。それ自体がひとつのエンターテイメント
「ほとんどの方が口コミで来る」と話すマスターの阿部訓諭さん。
購入を希望するお客さんをその場で採寸し、また試着などもそこで行うことが多く、そうした一連の流れがひとつのショーになっていると、阿部さんは話します。
「飲みながら採寸って、聞いたことないですよね。ほかのお客さんからも、『いまお腹へこませたでしょ!』とかって声も出たりして、店全体に一体感が出るんです。服を裏で試着してもらって、ほかのお客さんの前で披露する、それってランウェイみたいで面白いでしょ」
「それを見て、自分も買いたいって人もでてきたり。買った挙句に、気に入ってその格好でまた飲み直す人もいたりするんです。それにうちはオーダーメイドもありますから、注文、試着、購入、という風に何回も店に来てくれることになるんですよ」
このような特殊なコンセプトを設けるにいたった背景には、阿部さんの徹底した「個性」への追求がありました。そもそもIpcressでは、仕立てた服を販売するだけでなく、店内の椅子やテーブル、壁など目に映るほとんどが、阿部さんの手によってつくられたものなのです。
壁面に衣服の切れ端を貼り、むき出しの天井には造花のツタで隠したそう。
そうした「個性」へのこだわりは、1966年から68年にかけてのロンドンの歴史に関係していました。「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれ、流行に染まらない、とくに華やかなメンズファッションが台頭し、世界中の尖ったファッションがロンドンに集まっている時代。
そこから時が経ち、高校生だった阿部さんは偶然目にした当時のドキュメンタリー映画をきっかけに、そうした尖った個性に魅了されることとなりました。
▼ Ipcressは向島のリトルロンドン「お客さんには唯一の存在になってほしい」
それゆえにこのバーのもう一つの側面は、「向島のリトルロンドン」。販売する服も、店を満たすさまざまな物品もすべて、個性があふれかえったその時代へのオマージュとなっています。阿部さんは、この世に存在する「一点もの」の価値を次のように説きます。
「流行っていうのはダサい。だって、お金出したら買えるものってのは、その人を表しませんよね。だからうちのオーダーメイドは、絶対に一点もの。買ってくれるお客さんにも、スウィンギング・ロンドンを生きた人々のように、この世界で唯一の存在になってほしいんです」
だからこそ、Ipcressのお酒もやはり一点もの。なかでも看板商品のモヒートは、お客さんに合わせて変化することもあるオリジナルカクテルなんだそうです。
「山形出身のお客さんから『さくらんぼが家に届いた』って言われたら、持って来てよって。モヒートはアレンジしやすいから、さくらんぼを掛け合わせて新たなメニューを考案。お客さんが増えればメニューも増えるって感じです」
「最初はモヒートの存在もよく分かってなかったんです。でも地元の人に教えてもらって、つくれるようになりました。そうすると、砂糖をメープルにしたら美味しいんじゃないか、いちごを入れたら…と思考が広がっていきました。自分が好きなものづくりとモヒートが、うまくマッチした感じですね」
阿部さんの口から時折こぼれる「地元」という言葉。実はIpcressのお客さんの構成比は、スィンギング・ロンドンのファンが約2割、残りの8割は地元の人なのだそうです。
▼ スカイツリーの下にはIpcressがある、そして向島のまちがある。
住宅街に煌々と光るIcpress。ここ最近2階にSUPERNOVAというバーをオープンした
阿部さんは、自身のことを「頼りない」と形容し、だからこそ多くの地元の人に助けてもらっていると話します。
「墨田区は下町だから、良い意味でお節介を焼いてくれる人が多いんです。ぼくは、飲食店経験なし、ウィスキー飲めない、頼りない人間だからこそ、その余白をたくさんの方々に埋めていただいてるみたいなんです」
出店当時の地域への挨拶回りや開店準備などにおいて、多くの墨田区民の手を借りて始まったIpcress。いまでは、さまざまな職業の区民のブレインストーミングの場にもなっています。
靴やコースター、カレンダーなど、お客さん同士や阿部さんとの掛け算で、新たな商品が生まれ、向島におけるひとつのモノづくりの場としても機能しています。
墨田区公認のシールが貼られた「北斎モヒート」。
こうして地元との繋がりを深めていき、ついには墨田区長とのコラボモヒートの依頼が舞い込んできたそうです。墨田区出身の偉人、葛飾北斎にちなんだ「北斎モヒート」なるものを開発し、区を代表するオリジナルカクテルとして認められるほどになりました。
そもそも阿部さんが墨田区を出店場所に選んだ理由には、そのランドマークであるスカイツリーの存在がありました。恵比寿の服屋を営んでいる時代、まだ3分の1ほどしか建てられていないスカイツリーを見て、「これはなにか起こる」と確信が心のうちに湧いたそうです。
「業平橋っていう何もないところに、多くの見物客が来てるのを目にして、ゾクゾクしたんです。空を破るように634メートルのタワーができると思うと、東京の新しい個性のようで。竣工の約1年前に出店し、その時を待ちました」
「完成すると、取材などでうちの店に多くのお客さんが入りました。そこで今度はスカイツリーを撮影して、毎日SNSに公開するということを始めたんですよ。高層ビルや東京タワーからはスカイツリーが見えるから、それがきっかけでうちの店を思い出してもらえればと思ったんです」
「スカイツリーの下にはIpcressがある、そして向島のまちがある。地元の人にも、外の人にも、そう思ってもらいたかったんです」
ほとんど遮られることなく、ツリーの天辺まで見通すことができる。
店から一歩外に出、住宅街に視線を馳せると、その先にはスカイツリーがまちを見守るようにそびえ立っています。
服好き、ロンドン好き、お酒好き、さまざまな人が足を運び、そして「個性」を見つけるIpcress。阿部さんは今日も、一点もののカクテルをつくります。
【取材協力】
Ipcress Lounge/SUPERNOVA パブマスター 阿部 訓諭
【場所】
東京都墨田区向島1-11-11
著者:清水翔太 2019/2/12 (執筆当時の情報に基づいています)
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