「便利」な時代だからこそ、「不便さ」を売る。三ノ輪のまちを淡く照らす行燈旅館。

日本の一大観光地である浅草から電車で約十分、下町情緒を残す三ノ輪というまちがあります。昼間から賑わうアーケード商店街に、駅を中心として広がる幾多の銭湯など、東京にありながらどこか地方の旅行地を思わせる風情あるまち。

浅草に限らず上野や日本橋から近いこともあり、賑わいに疲れた外国人観光客がときどき足を伸ばす三ノ輪ですが、駅から少し歩いたところに「行燈旅館」という変わった名前の宿泊施設があります。

なかでも異国情緒を漂わせる三ノ輪橋駅。改札はなくプラットホームまで地続き。

浴場に置かれた行燈。暗闇のなかに仄かに微光を灯す様子は、なんともノスタルジック。

江戸時代から、照明器具の一つとして普及しはじめた行燈ですが、用途はさまざま。街灯や軒先の灯りとして使われたり、ランタンのように移動の際に使われることもあります。そのなかの代表的なひとつが、枕元に置かれ夜中部屋を淡く照らしていた「有明行燈」というもの。

行燈旅館のオーナーである石井敏子さんは、この有明行燈の虜になり、旅館との掛け算を思いついたそうです。古風な館内には行燈が置かれ、各部屋はぼんやりとした明るさに包まれています。石井さんは、行燈に惚れ込み、それを旅館に組み込んだ理由を語ってくれました。

「旅行をする人の大半は、日常から解放されることを目的としていると思うんです。この現代では、テレビやパソコン、スマートフォンと、光を放つものがあまりにも多い。だから旅先くらい、光から遮られる空間があってもいいんじゃないかって考えたんです」



「旅行というのは、異文化や異次元など、生活の違いを感じるもの」と語る石井さん。

「それに、三ノ輪のまちも、大都会東京のなかでは行燈のような位置付けだなって。渋谷に新宿、浅草、上野、って人がごった返してる場所の近くにあって、でも静かなまち。夜まちが寝静まったときに、この旅館の窓灯りが淡く光って、旅館全体が三ノ輪を象徴する行燈のようになれればいいかなと」

▼ 「不便さ」も異国の味わいのひとつ。面倒くさくて、一手間あるからこその「旅」。



また、行燈に限らず、部屋は4半で全室に、布団も敷布団、履き物は草履、寝巻きは浴衣と、当時の日本を再現するかのようなつくりになっています。宿泊者のほとんどは外国人観光客だそうで、その使い方に戸惑うことも多いと言います。

狭い部屋なので過ごすのに苦戦したり、説明書を用意しているわけではないので、シーツの掛け方や浴衣の着方など、一苦労するお客さんが多いそうです。しかしそこにこそ、石井さんの狙いがありました。石井さんは「不便さ」という言葉を使って、その理由を説明します。

「日本人の几帳面さのルーツって、不便さから来ていると思うんです。昔は西洋みたいに寝室と生活スペースって区別されてなかったから、狭い部屋で寝食して、どうやったら効率的に暮らせるか、物や生活がごっちゃにならないか、当時の人が考えてきたからいまがあるんだと。その国の歴史に触れることが、旅のひとつの醍醐味なんじゃないかって思うんです」

客室はスタイリッシュさと和の美しさを兼ね備えている。壁は完全防音でゆったりと寛ぐことができる。

「現代に西洋風のホテルが多いというのも理由にあります。たとえば欧米から日本に来て、綺麗で不便なく過ごしてふかふかのベッドで寝る。それじゃ自国で過ごすのと変わらないんじゃないかって思ったんですよね」

「それに、分からないことが多いと、宿泊者同士の会話のきっかけになったりしますよね。この布団どうやって敷くの? みたいな。旅で同じ不便を共有した仲って、なんか良いじゃないですか」

旅館のなかを歩いていると、いたるところに骨董品が見受けられます。石像に水屋箪笥、掛け軸、羽子板と、人生であまりお目にかかることのない品々。石井さんは有明行燈以外にも、骨董品を収集するのが趣味なんだそうです。

石井さんが旅行のたび、全国各地で集めてきた骨董品の数々。

階段の踊り場に置かれた骨董品。時期ごとに館内の骨董品が入れ替わる。

こうした骨董品も、宿泊客を楽しませるのに一役買っています。というのも、これらの骨董品は石井さんが地方に旅行に行くたびに購入するのだそうで、全国津々浦々の思い出が詰まっているんです。

宿泊客から、「これはなに?」と問われるたびに、その地のエピソードを話す石井さん。東京に旅行しているのに日本全国を知れてしまうのも、この旅館ならではの楽しみ方のひとつです。

▼ 旅館だけでなく、まちを好きになってもらう。「『三ノ輪が好き』って言ってもらえるのが、なによりも嬉しい」



また行燈旅館では、より日本を知ってもらおうと、日替わりでお抹茶や華道、折り紙などのイベントを開催しています。基本的には外部講師に依頼しているそうですが、華道と習字だけは、石井さんが教えているんです。なぜそこまで、おもてなしに力を入れるのか、石井さんはその理由を語ってくれました。

「最近では規制緩和で民泊が増えてきて、宿泊施設自体が増えています。でも、それってどうなのだろうと。コンビニ感覚で泊まれる施設が増えていて、旅ってそういうものなのかなあって」

「どこも同質になっているからこそ、寝場所だけでなく、『物語』を売りたいんですよ。異国の地で、異国の人と触れ合って、異国の文化に染まって、そうやってはじめて本当の『旅』が完成するんじゃないかと思ってるんです」

力強く語る石井さんは、最近新たなプランを発表しました。それは、三ノ輪のまちにある銭湯を巡るというプラン。行燈旅館の周囲には10軒以上の銭湯があり、その位置がお手製の銭湯マップに落とされています。

行燈旅館自慢のお風呂。予約制の貸切り風呂で、プライベートな時間をゆったり過ごせる。

700円で2つの銭湯を回れるお得なプラン。「いずれは浴衣のまま、まちを歩けるようにしたい」と展望を語る石井さん。

宿泊者はそのマップを手に、券をもって銭湯をハシゴできるんです。これには、外国人宿泊客が慣れない銭湯に行くハードルを少しでも下げようという意図のほかに、石井さんの「旅館」に対するそもそもの考え方がありました。

「旅館経営は、旅館だけを好きになってもらってもしょうがない。そのまち、つまり三ノ輪を好きになってもらわないとリピーターは増えない。あの天丼屋が、あの商店街が、そしてあのまちが好きだから、あの旅館に泊まろうとなる」

「だから、『三ノ輪が好き』って言ってもらえるのが、なによりも嬉しいんです。旅館が、その人にとっての家のようになって、その家がまちに根付いて、コミュニティをつくってれば、お客さんも安心できますよね」

そう笑って話す石井さん。趣味の旅行では、研究のために一日ごとに異なる宿泊施設に泊まることも多いそうです。これほどまでに旅人のことを想うのは、石井さん自身が旅人だからなのかもしれません。

三ノ輪のまちに煌々と灯りをたたえる行燈旅館。目まぐるしく動く日常に息苦しさを感じたら、淡い光のもとで、旅人気分を味わってみるのもいいかもしれません。

【取材協力】

行燈旅館/代表取締役 石井 敏子

【アクセス】

東京都台東区日本堤2-34-10

日比谷線三ノ輪駅3番出口より徒歩5分


著者:清水翔太 2019/4/12 (執筆当時の情報に基づいています)
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