「肩の力が抜ける場所でこそ、繋がりや発想が生まれる」墨田区の“アイディアの源”、東向島珈琲店。
「10年続く店は1%にも満たない」と言われるほど、残っていくのが難しいカフェ・喫茶店業界。チェーン店の大規模化や、海外からの有名店の参入などが増え続けていることで、反対に既存の店舗数は減少し続けています。
そうしたなか昨今では、お客さん同士が繋がることを目的とした「コミュニティカフェ」、ワークスペースでもあり新規ビジネス創出の場でもある「ノマドカフェ」など、カフェ自体が特定の方向に“目的化”することで、集客を狙う事例も多く見られるようになりました。
このような状況下で、これといった目的化を行わず、自然なかたちでお客さん同士の繋がりが生まれ、また区を代表するサービスや商品のアイディア創出の場にもなっているカフェが、墨田区東向島にあります。
地域から愛されて13年、墨田区の片隅にそっと佇む東向島珈琲店の店内。
「ヒガムコ」の愛称で地域に親しまれる「東向島珈琲店」は、2006年にオープンして以来13年間、お客さん同士の結びつきはもちろん、区内事業者同士の連携や墨田区ブランドに認定される商品の誕生など、数えきれないほどの物語を、限られた「カフェ」という空間から生み出してきました。
▼ 「美味しい」は“味”だけじゃない。その日の気分や店の空気が味覚にも影響してくる
目的化やコンセプト化を行うことなく、あくまで自然に、このような空間が形成されていった過程について、店主・井奈波康貴さんは次のように語ってくれました。
「やっぱり『美味しい』という言葉をもらうために頑張って来たというのが大きいと思います。でもこの『美味しい』っていうのが、じつは味覚だけが関係しているわけじゃないというのがポイントで」
「もちろん当店自慢のコーヒーやレアチーズケーキの味にも力を入れてきたのですが、それ以外の要素にも意識を向けてきました。例えば同じコーヒーを取っても、家や喫茶店、自然の中などの場所、あるいは一人なのか二人なのか、飲む場所や人が違うと、“味”は同じでも、“感じ方”が異なりますよね」
夕方になると大きな窓枠から夕陽が差し込み、店内に橙色の影をつくる。
「だからうちではこの”感じ方”を意識して、『時間と空間と仲間』の“三つの間”をテーマにしてきたんです」
「味が変わらないからこそ、その周囲の要素を柔軟に変化させていく。それが味に還元されてようやく『美味しい』になる。そうやって、一人一人に沿った心地良い空間を作ってきました」
店内の小窓が切り取る東向島の日常。大通りに面するため、老若男女さまざまな人が店の前を通る。
このような井奈波さんの考えのもと、肩の力が抜けるような居心地のいい空気感のなかで、地域から多くの信頼を集めてきた東向島珈琲店。
そのなかでもやはり特徴的なのが、地元企業で働く人や、考え事をしているお客さんの閃きの場でもあること。ここから誕生した商品やイベント、マッチングなどは数知れません。
同店の看板メニュー「レアチーズケーキ」を盛るディッシャー。
井奈波さんは、このようにアイディアが生まれやすい環境になったことについて「4B」という考え方を用いて、以下のように説明してくれました。
「何かアイディアを考えようとすると、全然浮かばないのに、お風呂とかトイレとか、全然関係ない場所でふと何か閃くことって、ありますよね」
「“想像力の4B”(Bathroom, Bed, Bar, Bus)っていう言葉があるんですけど、人はリラックスしたり、考える対象から離れたりした所でこそ、何かが閃いたりすることが多いそうなんです。だから、うちではこの“リラックスする”ということを、常々考えてきました」
▼ 自然災害の頻発や街の目覚ましい変化で、人々が”緊張”している。だからこそ「変わらない場所」が”緩和”になる。
街角から覗くスカイツリー。変化してゆく墨田区の街を象徴している。竣工から同区の人口が、4〜5万人は増えたという。
井奈波さんの言うとおり、ゆったりとした時間が流れる店内。チェーン店のように隣同士がくっついていたりということもなく、二つの階に分かれている店内では、両手を伸ばしても当たらないくらいの距離に席が配置されています。
窓は大きく切り取られ、外から見える墨田区の長閑な風景から柔らかな光を受け入れる店内。そこに、元ホテルマンでもある井奈波さんの上品かつ、絶妙な距離感での接客が加わり、「4B」を思わせる東向島珈琲店特有の空間が形成されています。
店の裏手にある公園からは、時おり子供の遊ぶ無邪気な声が響き渡る。
この“リラックス”というのは同店を語る上でも重要なキーワードであり、いまは時代的にその必要性が際立ってきてると、井奈波さんは語ってくれました。
「最近では大きな台風が来たり、地震が高頻度で起きたり、世界でデモが起こっていたり、とにかく世の中が緊張しているような気がしていて。さらにネットによって、そういう情報が逐一入ってくるようになって、緊張感のレベルを押し上げている」
「ここ墨田区も、2012年にスカイツリーが開業して、そこから人口が一気に増えた。さらにこれまで大学が0だった墨田区に2校が新設されて、これからまた新たな風が吹く。2020年の五輪に向けても、街が変わり始めている」
大通り沿いに構える同店。日中、店の大きな窓は鏡となって東向島の日常を映し出す。
「何かが変化する予感、そういったものは楽しみでもあるけど、同時に緊張も連れてくる。だから“緩和”が大事で、そのためにリアルな場が、どうしても必要になってくるような気がしているんです」
かつてなかった変化によって、いつの間にか緊張状態にある現代人。自身が「緊張」しているという認識は、「緩和」されて初めて気づくものなのかもしれません。
「リアルな場が大事」と話す井奈波さん。脆く流れやすいネットの時代にこそ、物理的に壊れない限り「そこにある」という安心感が、価値になるのかもしれません。
誰しもが緊張していることを知っていて、リラックスしてほしいと願っている井奈波さんの存在。ネットとは異なり、確かにそこに存在してる東向島珈琲店。そうした緩やかな空気だからこそ、生まれてくる斬新なアイディア。
街や文化が変化するダイナミズムのなかにある墨田区において、リアルであり続け、常に“緩和”を提供し続ける同店の存在は”人”だけでなく、”まち”の癒しにも繋がっているようです。
【取材協力】
東向島珈琲店/オーナー 井奈波 康貴さん
【アクセス】
東京都墨田区東向島1-34-7
曳舟駅より徒歩3分ほど/京成曳舟駅より徒歩5分ほど
著者:清水翔太 2019/12/26 (執筆当時の情報に基づいています)
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