「不完全な機械だから、ものを作り続けられる」ヨーロッパ最高峰の美術館を唸らせた、群馬県桐生市の100年企業。

世界遺産に指定された「富岡製糸場」が群馬県にあるように、群馬は養蚕に適した土地柄であったため、徳川幕府の時代から絹産業で栄えていました。

特に明治時代には、糸の集積地だった前橋のあたりから糸を運んで桐生の街で絹織物を生産し、それを輸出して外貨を獲得していたのです。

時代の流れとともに織物産業は縮小しつつありますが、桐生の街には今も、古くから繊維業を営んできた、明治40年創業の“100年企業”があります。

ニューヨークの世界的に有名な美術館でそのマフラーが人気No. 1商品となり、その後もスペインのプラド美術館、箱根のポーラ美術館をはじめとする国内外の美術館ショップにニット商品を届けてきたのが、この松井ニット技研です。

松井ニット技研の商品は、量販店では見つからない。美術館、工芸品のセレクトショップ、高級旅館など、お客さんが「何かいいものないかな」と買いにくるところに置かれている。

驚くことに、それほどアートの最先端をいく人々の気にいる商品を編んでいるのは、昭和の時代から60年以上も使われてきたラッセル機。

商品を企画開発しているのは、松井ニット技研を運営している70代のご兄弟、松井智司(まつい ともじ)さんと松井敏夫(まつい としお)さんです。

これまでの会社の変遷をお二人は、次のようにお話ししてくださいました。

「明治40年に繊維工場をはじめて、昭和18年に機械を全部拠出したんです。機械は全部、戦争の鉄砲玉になってしまった。その後は呑竜号(どんりゅうごう)という戦闘機の部品をつくる工場をやっていたんですよ。」

「敗戦になって、その頃に父が病気になってしまったものですから、もともと機屋の娘だった母が、得意な繊維業を扱う工場に戻そうとしたわけですね。桐生は織物の街ですけれど、母が中古で見つけてきたのは織り機ではなく、編み機だったんですよ。今から見れば、ちゃっちい、不完全な機械です。」

今も現役でマフラーを編んでいる松井ニット技研のラッセル機。

昭和34年に生まれたこの機械を使い続けてきた工場は、日本でもほぼ存在しません。

その背景には、加速度的に機械化が進んで高速の機械に乗り換える工場が多くなり、さらにそこに追い打ちをかけるようにして今から30年ほど前、国が古い機械を買い上げて近代化を促進するという政策を打ち出したためにラッセル機のような古い機械が日本中で壊されてしまったということがあります。

そうした移り変わりを横目にラッセル機を使い続けてきた松井ニット技研。松井さんは、次のように言いました。

「うちはラッセル機を壊さなかった。桐生の街中で機械を高速化すると、ものすごい振動やらなんやらで近所迷惑になる。街中の工場ですから、そんな大きい機械を入れるのは難しかった。何より、子供の頃から見てきたこのラッセル機が大好きだった。」

▼ 昔の機械の特色は、「改造の余地がいっぱいある」ということ。

1959年生まれのラッセル機。改造を重ねてきたため、購入した当時の状態のまま残っている部分の方が少ない。

ファストファッションブームによって繊維産業が中国やタイ、ミャンマーなどアジア諸国に生産地を移したことで、松井ニット技研で製造する製品の総量は減りました。

しかしながら、量販店の下請けではなく、美術館ショップやセレクトショップと直接やりとりをする割合が全取引の9割を占める現在、商品1個あたりの利益率は上がり、松井ニット技研は減収増益を達成したそうです。

昔は桐生の絹織物は地元の買い継商が買い取り、その人たちが東京に売りにいくというのが絶対だった。周りに同業者のいなかった松井ニット技研はその当時から、地元の中継ぎを飛ばして、より売り場に近いところに商品を卸していた。

60年も同じラッセル機を使い続けてきた松井ニット技研には、自分たちと同じ編み方の製品、つまり競合といえるものがありません。

松井さんは、次のように言います。

「ラッセル機のような低速機は高速化の時代に淘汰されて、製造しているメーカーがもうないんですよ。でも、低速機じゃなきゃ編めない編み方があるんです。糸にテンションがかかりにくいから、柔らかくふんわりしたものが編める。」

「うちが得意としている『リブ編み』というのはね、理屈では難しくないけど、編み方は非常に難しい。編みにくい組織なんです。この編み方は、たとえ機械が残っている同業者であっても、一社も真似してきません。技術の積み重ね、経験の積み重ねで、この機械も随分カスタマイズしたんですよ。ありのまま残っているのは本体の動きだけ。」

「古い機械っていうのはいろんなことができる。いろんな人が使えるし、いろんな組織が編める。古い機械の特色というのは、改造の余地がいっぱいあるということです。工夫次第で新しいものができる。」

▼ 柳宗悦「私的な利と、公な美とが一致することはあり得ない。」

糸に難しい編み組織である「リブ編み」のために、人間がラッセル機のそばについていてコントロールしないといけない。

新しい機械よりも古い機械の方が工夫次第でやれることの幅が広く、“大量生産”というほどの量は生産できなくても、入手しやすい値段のものをそれなりに多くつくることができます。

松井さんは松井ニット技研のつくるものとして、高価な芸術品よりも一般大衆の用いるものこそが美の王道だと説いた柳宗悦(やなぎむねよし)のことに触れています。

柳宗悦は、江戸で大衆に出回っていたもののように、かつては「多く」「安価」に存在するものは健やかで美しいものであったのを、資本主義が入ってきたことで安価なものが「安もの」と軽蔑されるようになってしまったと指摘していました。

それは、安く売ることで利益を得ている大量生産のものは、使い手の用途よりも作り手の利益が先に来ているため、長持ちしてよく働き、使い手の信用を勝ち得るような“健康な美”が欠落しているからだということです。



ニューヨークの世界的に有名な美術館のバイヤーの目に止まり、その後ファストファッションが台頭する中で、「いいもの」を探しに美術館ショップに訪れる一般の人々の目に止まるようになった松井ニット技研のマフラー。

その鮮やかなストライプのマフラーがテレビなどで取り上げられ、デザインの似ている製品も出て来ているそうですが、松井さんは次のように言いました。

「他のところがうちのマフラーに似せてつくると野暮ったいんですよ。『これ、松井さんの商品じゃないですよね』って、私たちのマフラーを知っている人には明らかにわかるんです。ミッソーニでもない、ポールスミスでもない、『松井ストライプ』。お客さんが名付けてくれたんですよ。」

松井のニットは、企業側からのブランド戦略といった主張がなくとも、顧客の間からブランドが走り出しています。

▼ 「ベラスケスのマフラーをつくりたい。」いいものに出逢うとマフラーにしたくなる。

左から松井ニット技研の松井智司さん、松井敏夫さん「ものづくりは一朝一夕にはいかない、積み重ねだとつくづく思います。ラッセル機を改造した時代、色やデザインを勉強した時代、アパレルのデザイナーから感性を吸収した時代。そうした時を経て今があります。」

松井さんによると、美術館では絵画の作品の前にそれをモチーフにした色を使って編んだマフラーをおいて販売することもあり、そうすると美術館側がびっくりするほどの売れ行きになるといいます。

配色、組織、糸づかいから全て、松井ニット技研オリジナルの名画マフラー。過去に商社で働いていた経験があり、語学に長けていた敏夫さんがスペインのプラド美術館に、「ベラスケスのマフラーをつくりたい」と自ら申し出たこともありました。

プラド美術館と何度もやりとりを重ね、時間とお金を投資して出来上がったベラスケスのマフラーは、「KIRYU」の文字が入っている箱に入れられ、日本国内とプラド美術館で販売されています。

世界三大美術館の一つと言われるプラド美術館が所蔵しているディエゴ・ベラスケス「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」。

あちこちの美術館に商品が置かれるようになっていった10年ほど前、松井ニット技研は、経済産業省の選ぶ「元気なモノ作り中小企業300社」にも認定されています。

桐生の街は、小さい街ながらもいいもの、美しいものの残る街。昨今では、文化的に敏感な若い人が移り住むようになり、メディアで桐生の話題を目にすることも増えています。

松井さんはこの街のこれからについて、次のように思いを表していました。

「技術さえ覚えてしまえば機械がやってくれる。でも、そこに人間が加わってこなきゃできないもの、そういうものっていうのは、まだまだ桐生では残れると思うんですよ。」

「持論なんですけど、点を増やせば線ができて、線が緻密になれば面になる。若い人も入って来て、ユニークな、いいものを作る場がいっぱいできれば面ができてくるかなと思うんです。」

「『1点しかできない』っていうものを作るのでは意味がないですよ。需要に応えられる、そこそこの量と実用性が必要。そういうものをみんなが作り始めたら、桐生は魅力的な街になる。」

歴史ある文化の土台がしっかり見える、桐生の街並み。

「絵画じゃなくても、いいものがあれば、『これをマフラーにしたら綺麗だろうな』って思うんですよ。」という松井さん。

どうしたらいいもの、美しいものが作れるのかということについて、投げかけてくれたのは次のようなメッセージでした。

「なんでもいろんなことに興味を持って。新しく見ることや聞くことがあって新しいものが生まれてくる。無から有はできない。ものづくりしている人間はそう思うの。」

新しいことを知りたいという気持ちが止まらなければ、設備などのハード面を一新しなくとも、新しいものが生まれてくる。人も機械も不完全であり続けるゆえに、進化し続けられるのかもしれません。

桐生で100年続く企業には、今もベンチャー精神が流れています。


■取材協力

「松井ニット技研」松井智司(まつい ともじ)さん、松井敏夫(まつい としお)さん


著者:関希実子・早川直輝 2020/1/9 (執筆当時の情報に基づいています)
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