悲しい記憶を観光資源へ。「忘れないようにすることで地域コミュニティのつながりは深まる」
国鉄が再建に向け、赤字路線の廃止を始めたのは今から40年前のこと。
それ以降に廃止された駅の数は全国で1200以上あるそうです。そうした駅や路線はかつてそこに産業があり、街があったということの証とも言えるでしょう。
かつて鉄道関係者で賑わう「鉄道の街」だった群馬県安中(あんなか)市は、1997年に廃線となった信越本線「横川〜軽井沢」間の“廃線”を前面に押し出して地域振興に取り組んでいます。
多くは立ち入り禁止となっていることが多い廃線だが、安中市観光機構は「横川〜軽井沢」間の廃線を歩けるように整え、線路の上を歩いて辿る「廃線ウォーク」というイベントを定期的に開催。参加者からは「スタンド・バイ・ミーのようだ」と好評。
一般社団法人 安中市観光機構によると、安中市の横川のあたりはもともと、労働者の50%が国鉄職員を占めるというほどの鉄道中心の街だったそうです。
しかし廃線により、突如仕事を失った当時の国鉄職員たちは次々と街を去り、当時の賑わいが幻のように、横川の街はガラリと変わってしまいました。
▼ 数十年ぶりに触れた車体の感触から、当時の暮らしの記憶が蘇る。
実は、安中市観光機構を訪れるのは、昨年8月の取材から二度目になります。
前回の取材では、横川を出て今80代90代となられている元国鉄職員は廃線当時の悔しさも深く、横川に足を踏み入れない人が多いというお話でした。
ところがこの度、元国鉄職員の方が数十年ぶりに横川の街を訪れるということで、その場に呼んでいただき、お話を聞かせていただきました。
上原芳徳(うえはらよしのり)さんと孫の上原将太(うえはらしょうた)さん。安中市観光機構に勤める将太さんは廃線の跡を辿るイベント「廃線ウォーク」にも携わっている。
「もう横川に行くことはない」と考えていた上原芳徳(うえはらよしのり)さん。この日、安中市観光機構に勤める孫の将太さんとともに横川の駅にやってきました。
かつて日本一の難所と言われた「横川〜軽井沢」間には、一般的な鉄道での勾配の限界が35‰(パーミル)と言われているのに対して、その倍近い66.7‰という急勾配区間がありました。
碓氷峠(うすいとうげ)という、その急勾配のトンネルを機関士助士として乗務していた当時を振り返る上原さん。「真っ暗な井戸の中に入ってくようだったよ。」と、お話されていました。
写真後列一番右が、国鉄時代横川機関区で機関士を務めていた頃の上原さん
上原芳徳さん「山の中をいくつものトンネルを越えていく。秋になると一斉に山の色が変わっていく、とても綺麗だった。」
上原さんによると、「横川〜軽井沢」間では、冬になると外の気温はマイナス7度くらいが当たり前だったそうです。
軽井沢に列車が着いたら機関車の車輪の外側を触って熱を帯びていないかを確かめるのが習慣で、他にも機関車が故障したという際には、低圧回路の部分は全部素手で触れてどこがおかしいかを確認をしていたといいます。
毎日触ってコミュニケーションをとっていた機関車を数十年ぶりに撫でながら、横川はまるっきり変わったと、上原さんは次のように言いました。
「昔の横川は自分の庭と同じで、どこに誰が住んでいるかわかってた。当時は今ほど電話がなかったから、『急に病気になった人がいるから代わってくれ』『列車が止まっているから行ってくれ』って呼びに来るんだよ。田舎だからみんな真面目だった。銭なんか無くてもいいんだよ、本当に信頼できる人がいればね。」
▼ 予約開始20分で埋まる、引退車両EF63の運転体験。「観光という視点では、鉄道はまだ生きている」
安中市では廃線後、引退を余儀なくされた「横川〜軽井沢」間専用の電気機関車「EF63」や、当時の鉄道の歴史文化、そして関わっていた人々の声を集めた “鉄道テーマパーク” 「碓氷峠鉄道文化むら」がつくられました。
その「碓氷峠鉄道文化むら」でイベント企画などを行なっているのは、高崎市出身の後藤圭介さん。碓氷峠の鉄道遺産に興味を持って安中市に移住し、地域おこし協力隊の一員として活動しています。
「EF63」の運転体験は、2ヶ月前から予約可能。予約は開始してから20分ほどで埋まってしまうという。
「碓氷峠鉄道文化むら」の中島理事長(写真左)と、安中市地域おこし協力隊の後藤圭介さん(写真右)
後藤さんは、鉄道の街として栄えていた当時の横川を知らない世代です。
しかし「碓氷峠鉄道文化むら」に置かれていた展示車両を見て、「地域の観光資源という概念でとらえてみたら、そのままにしておくのは勿体無い」と、廃線を切り口とした観光事業に関わるようになりました。
碓氷峠鉄道文化むらには「横川~軽井沢」間で活躍した電気機関車を中心に全国で活躍した電気機関車が数多く展示されている。
元国鉄職員に話を聞くうちにさらに鉄道や碓氷峠の歴史を勉強するようになったと話す後藤さん。
後藤さんのアイデアを発端に、サビだらけになってしまっていた特急「あさま」や「EF63」が現役の頃のように塗装されて蘇り、鉄道ファンを賑わせました。
その塗装の費用は、この街の鉄道が好きだった一人の市民から「碓氷峠鉄道文化むら」へ送られた寄付金でまかなわれたそうです。
▼ 街の辛い記憶を観光に昇華させることで、街は再び活性化する
実は、「痛みや悲しみの記憶まで観光資源として残したい」という、安中市の取り組みのような観光のあり方は、欧米では90年代から盛んに行われてきました。
海外では、かつての流刑地の刑務所跡なども「不謹慎ではないか」と思わずにいられないほど、明るい雰囲気で観光地化されていたりしますが、そうすることで世界中から人を集め、街の活性化と歴史の継承を目指しています。
自然災害の跡地を含め、日本ではそうした痕跡がヨーロッパ諸国と並ぶほど豊富にあるものの、「歴史」よりも「観光」を意識した取り組みとしてはなかなか普及が進んでいません。
碓氷峠を走るときは「奈落の底に落ちるようだった」と話す、元「EF63」機関士、丸山さん。現在「碓氷峠鉄道文化むら」に勤めている。
「嫌なことは忘れる」よりも「忘れないでおこう」と、悲しい記憶を観光として昇華させるプロセスの中で地域コミュニティのつながりは強くなるのかもしれません。
「生活の中心にあった鉄道がもう走らない」その当時の痛みから数十年。鉄道は安中市随一の観光資源として、再びこの街の振興に欠かせない存在になっています。
⬛️取材協力
元国鉄職員 上原芳徳さん
一般社団法人安中市観光機構 上原将太さん
「碓氷峠鉄道文化むら」 中島吉久さん、丸山良男さん
安中市地域おこし協力隊 後藤圭介さん
「碓氷峠鉄道文化むら」は、横川駅より徒歩5分
著者:関希実子・高橋将人 2020/4/17 (執筆当時の情報に基づいています)
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